ボシュニャク人の軍の働き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 01:07 UTC 版)
「スレブレニツァの虐殺」の記事における「ボシュニャク人の軍の働き」の解説
第53回の国際連合総会で報告が求められ、第54回の総会でスレブレニツァでのボシュニャク人の軍の指揮について報告がなされた。 報告は「第53回総会の決議に基づいた事務総長の報告書 / 35-スレブレニツァ陥落」と題され、1999年11月15日に公表された。報告では次のように言及した: ボシュニャク人がスレブレニツァ防衛のために十全を尽くさなかったことに対する非難に関して、この報告に関連して相談した軍事専門家らは、以下のことに同意した。装甲車隊と砲兵隊の支援を受けた攻撃を前にして、ボシュニャク人らはスレブレニツァを長期にわたって防衛することはできなかった。…ボシュニャク人が飛び地を撤退し、セルビア人の軍はスレブレニツァ陥落のその日に優位に立ったことに関して、多くの非難がある。しかしながら、セルビア人勢力が襲撃する前夜に、オランダ軍指揮官はボシュニャク人に対して、スレブレニツァ南部の防衛地点を離れるよう求め、その南部からセルビア人が侵略したことは考慮されなければならない。…スレブレニツァを防衛するボシュニャク人に対する第3の非難は、ボシュニャク人らが、セルビア人の攻撃者らに対して、安全地帯を出て攻撃する挑発行動を行ったとするものである。この非難は多くの国際的な出典に見られるものの、この主張を支持するいかなる信頼できる証拠も存在しない。このとき現地にいたオランダ軍の兵員は、ごく少数のボシュニャク人によるスレブレニツァ域外での襲撃が、軍事的意味が全くないか、あってもごくわずかであると評価した。飛び地に対する人道支援をセルビア人勢力が拒否したことにより、セルビア人の村に対する襲撃は時に食料を確保するために組織化されていた。更にこの報告書でのセルビア人の出典でも、スレブレニツァにおけるボシュニャク人たちは、セルビア人に対していかなる軍事的意味のある態度はなかったと評価している。スレブレニツァが安全地帯に指定されていた2年間で、スレブレニツァ域外への最も規模の大きかったボシュニャク人による攻撃は、1995年6月26日のヴィシュニツァ(Višnjica)の村への襲撃であると考えられ、数頭の馬が焼かれ、4人以下のセルビア人が殺害され、百頭の羊が盗まれた。それに比して、その2週間後のセルビア人によるスレブレニツァ制圧では、数万人を故郷から追放し、数千人の成人男性および少年を即決処刑した。セルビア人は、スレブレニツァから周辺のセルビア人への攻撃を繰り返し誇張し、中心となる戦争目的、すなわち地理的に連続し民族的に純粋な領土をドリナ川に沿って確保し、この領域で戦闘に従事する兵士をこの領域から解放して他の地域へと振り向けることに対する非難への弁解としている。これに加えて、この弁解は、ボスニアでの衝突があまりに多くの人々によって長期にわたって見られていたことを通じて、「罪の相対化」の色彩を反映した国際的な活動家らに額面どおりに受け入れられていた。
※この「ボシュニャク人の軍の働き」の解説は、「スレブレニツァの虐殺」の解説の一部です。
「ボシュニャク人の軍の働き」を含む「スレブレニツァの虐殺」の記事については、「スレブレニツァの虐殺」の概要を参照ください。
- ボシュニャク人の軍の働きのページへのリンク