ガソリンカーの出現とは? わかりやすく解説

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ガソリンカーの出現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 09:51 UTC 版)

東京横浜電鉄キハ1形気動車」の記事における「ガソリンカーの出現」の解説

日本においてガソリン機関搭載して自走する客車いわゆるガソリンカー用いた営業運転は、1920年初め行われた好間軌道現・福島県いわき市1936年廃線)。それ以前から日本電車存在し地方での運行例多かったが、地上設備余り要さず初期投資費用も安いガソリンカーは、輸送量少な閑散鉄道路線には電車より総合コストで有利であることから、1920年代半ば以降急激に普及するようになったそれまで蒸気機関車用いていた鉄道会社や、新たに路線建設しようとした鉄道会社も、電化による電車導入計画取りやめ、ガソリンカー切り替えるケース続出した。この時代には各地零細事業者よるバス会社乱立し中小私鉄の手強い競争相手となっていた。対抗上、増発し頻繁運転することに向いたガソリンカークローズアップされた。 自動車増加背景日本ガソリン価格低下し1930年代初頭にはアメリカ大差ない水準にまで下落したことも、ガソリンカー普及後押しした当初全長3-8m程度自動車並みの超小型であったが、以後数年の間に急速な改良進み1930年代初頭には中型電車並み収容力を持つ13m級の大型ガソリンカー出現した国鉄鉄道省)もこの時流乗り1929年からガソリンカー試作開始した当初車体が重すぎて性能不足となるなど失敗続いたが、私鉄ガソリンカー設計手法取り入れて開発された16m軽量車体・100psエンジン搭載キハ36900形(1932年・後にキハ41000形となる)は好成績をあげ、1935年までに100両以上も作られ全国各地列車本数増発実現する成功収めた。 これに意を得た鉄道省は、超大型の20mガソリンカー開発乗り出す1935年に20m車体・150PSエンジン搭載キハ42000形を完成させ、これも1937年までに100近く製造され一定の実績上げた当時国鉄線は電化がほとんど進んでおらず、大都市近郊でも蒸気機関車による運行多かったため、電車同様に頻繁運転できるガソリンカー利用者からも歓迎された。 当時ガソリンカー自動車におけるマニュアル車同様の手動式変速機用いており、複数車両先頭車から一括して制御することはできなかったが、連結運転の場合には編成各車に運転士乗務させ、汽笛合図同時に変速を行うやり方問題クリアしていた。このため実用上は通常3両編成限度であった。 より経済性優れたディーゼルエンジン一部私鉄用いられたが、一般に当時日本技術水準では扱いきれず、戦前には広く普及はしていない電鉄での輸送力増強に際しては、車両増備のほか、変電所など地上設備強化不可欠であるが、これには多額コスト要する場合によっては一部運用ガソリンカー用いた方が、設備投資額等を比較検討すれば増発には低コストで済む、というのがメーカーアピールであった中小私鉄ではこの提案乗った例も幾例か見られたが、大都市発着する電化私鉄実際にこの策を導入したのは本形式導入した東横電鉄のみである。 東横電鉄ワンマン経営であった五島慶太は、コスト計算極めてシビア人物であった1930年代中期東横電鉄では利用客増加伴って輸送力増強急務であったが、五島はこれに際しコストダウンのため、ガソリンカー導入検討した地上設備増強車両製造費用とその減価償却等々電車増備との徹底した費用比較が行われた結果ガソリンカー導入の方が若干有利であるという結論達したこの際には、機械式気動車ネックとなる、総括制御不能による運転士複数乗務までも計算入れられていたという。キハ1形はこうして導入されたものである実際には、1937年以降戦争激化による統制ガソリン価格暴騰しガソリンカー運行コスト急上昇メーカー提示した皮算用」はあえなく破綻した電化私鉄ガソリンカー多くは、非電化私鉄売却され、あるいは電車改造されるなどの経過辿っている。

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ガソリンカーの出現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:46 UTC 版)

日本の気動車史」の記事における「ガソリンカーの出現」の解説

1910年頃から、欧米では軽量高出力ガソリンエンジン動力の「ガソリンカー」(ガソリン動車)が広く用いられ日本にも1920年代以降普及した。 その最初は矢沼商店1919年製作した自動車改造車であったが、この車両公開試運転1919年7月28日京浜電気鉄道蒲田 - 穴守間を借用して10.5往復運転)を行なったとどまった営業運転第1号となったのは矢沼商店から独立した自動鉄道工業所が製造し1921年福島県好間(よしま)軌道納入した小型ガソリンカーである。この車両1920年10月完成1921年4月4日営業運転開始した4 mほどの木造車体で、定員12人。運転台片一方のみで運転台方向前進走行する「単端式」で、終点では蒸気機関車と同様、転車台等で方向転換をしていた。好間軌道納入前に静岡県根方軌道試運転行なっている。 地上設備余り要さず初期投資費用も安いガソリンカーは、輸送量少な閑散路線には総合コストで有利であることから、新たに開業した非電化軌道から採用始まったが、他の動力使用する非電化軌道にも導入例見られるようになった1925年には地方鉄道初の事例として栃尾鉄道日本鉄道事業製のガソリンカー導入している。ただし、この時期はまだガソリンカー導入例は762 mm610 mm軌間軽便鉄軌道限られていた。1,067 mm軌間ガソリンカー採用例はガソリンカー普及期にはいった1927年南越鉄道ガ1が最初である。 製造メーカーとしては、好間軌道夷隅軌道などの車両を手がけた最初内燃動車メーカーである自動鉄道工業所→日本鉄道自動車日本鉄道事業がこの時期気動車のほとんどを製造している。 1926年になると丸山車輌ガソリンカー製造参入同社製品登場機にガソリンカー導入する地方鉄・軌道急増したガソリンカー需要増加背景は、この時代日本各地零細事業者による車両保有台数1、2程度バス会社乱立し中小私鉄激し競争展開され始めていたことがあげられる。各私鉄対抗上、列車増発する必要に迫られ頻繁運転することに向いたガソリンカー採用踏み切った自動車増加背景日本ガソリン価格低下し1930年代初頭にはアメリカ大差ない水準にまで下落したことも、ガソリンカー普及後押しした

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