からゆきさん
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:55 UTC 版)
詳細は「からゆきさん」を参照 江戸幕府は島原の乱の頃には、出島や唐人屋敷への出入り資格を制限していたが、丸山遊女は例外として許された。出島へ赴く遊女たちは「紅毛行」、唐人屋敷へ赴く遊女たちは「唐人行」と称された。日本人男性相手の「日本行」の遊女とは明確に区別され、「唐人行」とはこの中国人を相手にする遊女らを指したものである。 「唐人行」の遊女たちの多くは、「鎖国」時代から長く中国人のみを相手にしてきた……日本人の海外渡航がいったん可能になると、彼女たちがいち早く海外へ飛び出したことは、むしろ自然のなりゆきといえよう。 江戸時代の頃、長崎の唐人屋敷の近隣にある島原のあたりでは「からゆき」という言葉が生まれ、これが「からゆきさん」の語源となった。島原半島、天草諸島では、島原の乱後に人口が激減したため、幕府は各藩に天草・島原への大規模な農民移住を命じていた。 日本人女性は江戸時代より外国人貿易業者を通じて売春婦として東南アジアなどにいっていたが「からゆきさん」(唐行きさん)は、19世紀後半に東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性である。数万人単位の数のからゆきさんがいたとされる。 「からゆきさん」として働くため海外へ渡った女性の多くは、貧困に喘ぐ農家や漁師の家の娘であった。女性達を海外へ送った仲介者は貧しい農村地域の適当な年齢の娘を探し、「公的な職務のために海外へ連れていく」と伝え、親に対価を支払った。その後、仲介者は売春産業の人々に少女を売り渡した。そうした仲介者の中には得られた金銭で、海外で自身の売春宿を構えた者もいた[要出典]。 明治の終わりは「からゆきさん」の黄金期であり、海外への航海にいった少女達は「娘子軍」と愛情を込めて呼ばれた。しかしながら、日本の国際化によって物事は変化し始め、程なくして「からゆきさん」は恥ずべきことと見なされた。1910年代および1920年代の間(明治43年~昭和4年)、海外の日本当局者は日本人売春宿を廃止し、日本の名声を保とうと熱心に取り組んだが必ずしも成功しなかった。日本人売春婦の多くは日本に戻ったが、一部は現地に残った。 太平洋戦争(大東亜戦争)の後、「からゆきさん」は日本の太平洋戦争前の恥部としてほとんど知られていなかった。しかし、1972年に山崎朋子が『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』を出版したことで、「からゆきさん」への関心が高まり、さらなる研究および報告の後押しをした[要出典]。 からゆきさんの主な目的地は中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどである。彼女達はしばしば西洋の軍人および中国人の強い要求があったアジアの西洋諸国植民地に送られた。シベリアや満州(現在の中国東北部)、ハワイ、北米(米国・カリフォルニア)、アフリカ(ザンビア)にまで送られた女性の例も存在する。 朝鮮や中国の港では日本国民にパスポートを要求していなかったことや、「からゆきさん」で稼いだお金が送金されることで日本経済に貢献していることを日本政府が認識していたことから、日本の少女たちは容易に海外で売買されていた。1919年に中国が日本製品をボイコットしたことで、「からゆきさん」からの外貨収入にますます頼るようになった。明治日本の帝国主義の拡大に日本人娼婦が果たした役割については、学術的にも検討されている。 バイカル湖の東側に位置するロシア極東では、1860年代以降、日本人の遊女や商人がこの地域の日本人コミュニティの大半を占めていた。玄洋社や黒龍会のような日本の国粋主義者たちは、ロシア極東や満州の日本人売春婦たちを「アマゾン軍」と美化して賞賛し、会員として登録した。またウラジオストクやイルクーツク周辺では、日本人娼婦による一定の任務や情報収集が行われていた。 ボルネオ島民、マレーシア人、中国人、日本人、フランス人、アメリカ人、イギリス人など、あらゆる人種の男たちがサンダカンの日本人娼婦たちを訪れた。「おさき」という日本人女性は、日本人、中国人、白人、原住民の男性は人種に関係なく同じような対応がなされ、日本人娼婦の「最も嫌な客」は日本人男性で、中国人男性には「十分に親切」という表現を使い、欧米人男性は2番目に良い客で、原住民男性は最も良い客だと語っている。 アメリカ統治時代、日本とフィリピンの経済関係は飛躍的に拡大し、1929年には日本はアメリカに次ぐフィリピンの最大の貿易相手国となった。経済投資に伴い、商人や庭師、日本人娼婦(からゆきさん)などを中心とした大規模なフィリピンへの移民が行われた。ミンダナオ島のダバオには、当時2万人以上の日本人が住んでいた。 1872年頃から1940年頃まで、オランダ領東インド諸島の売春宿で多数の日本人売春婦(からゆきさん)が働いていた。 1890年から1894年にかけて、シンガポールは村岡伊平治によって日本から人身売買された3,222人の日本人女性を受け入れ、シンガポールやさらなる目的地に人身売買される前に、日本人女性は数ヶ月間、香港で拘束されることになった。日本の役人である佐藤は1889年に、長崎から高田徳次郎が香港経由で5人の女性を人身売買し、「1人をマレー人の床屋に50ポンドで売り、2人を中国人に40ポンドで売り、1人を妾にし、5人を娼婦として働かせていた」と述べている。佐藤は女性たちが「祖国の恥に値するような恥ずかしい生活」をしていたと述べている。 オーストラリア北部にやってきた移民のうち、メラネシア人、東南アジア人、中国人はほとんど男性で、日本人は女性を含む特異な移民集団だった。西豪州や東豪州では、金鉱で働く中国人男性に日本人のからゆきさんがサービスを提供し、北豪州のサトウキビ、真珠、鉱業周辺では、日本人娼婦がカナカ族、マレー人、中国人に性的サービスを提供していた。 日本人娼婦は1887年に初めてオーストラリアに現れ、クイーンズランド州の一部、オーストラリア北部、西部などオーストラリアの植民地フロンティアで売春産業の主要な構成要素となり、大日本帝国の成長はからゆきさんと結びついた。19世紀後半、日本の貧しい農民の島々は、からゆきさんとなった少女たちを太平洋や東南アジアに送り出した。九州の火山性の山地は農業に不向きで、両親は7歳の娘たちを長崎県や熊本県の「肉商人」(ツェゲン)に売り渡したが、5分の4は本人の意志に反して強制的に売買され、5分の1だけが自らの意志で売られていった。 人身売買業者が彼女たちを運んだ船はひどい状況で、船の一部に隠されて窒息死する少女や餓死しそうになる少女もおり、生き残った少女たちは香港、クアラルンプール、シンガポールで娼婦としてのやり方を教えられ、オーストラリアなど他の場所へ送られた。 20世紀後半に日本で踊り子や歌手、ホステス、ストリッパーとして働いていたアジア人女性は「ジャパゆきさん」と呼ばれることがあり、議論の中心となってきている[要出典]。
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