1942とは? わかりやすく解説

1942

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1942千九百四十二一九四二、せんきゅうひゃくよんじゅうに)は、自然数または整数において、1941の次で1943の前のである。




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1942

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赤色空軍」の記事における「1942」の解説

ドイツ空軍は、緒戦数日間制空権獲得し、これに対し赤色空軍は、極東方面から1000機以上の戦闘機戦闘爆撃機投入し反撃うつったIl-2シュトゥルモヴィーク(対地攻撃機襲撃機)がドイツ戦車隊壮絶な戦闘展開した赤色空軍1942年になると高中度からの対地攻撃有効性気付き一つ目標高中度からの連続攻撃繰り返す戦術採用。また回転サークル呼称する陣形導入し対地攻撃効果飛躍的に上げ損害率減少した一方で爆撃機偵察機の不足から、対地攻撃機爆撃任務偵察任務任されることが増えIl-2様々な局面投入された。回転サークルドイツ空軍戦闘機隊との戦闘考慮され効果的な応戦が可能となっていたが、攻撃離脱時の隙が最大弱点となっていた。結果攻撃離脱時を狙われ撃墜されパターン増加しIl-2全損失数のうち8割が戦闘機による損失だった。無線の不足により護衛戦闘機配備効果あげられなかった。 第11親衛襲撃機航空師団長A.G.ナコネチニコフ大佐は「…襲撃機が敵戦闘機と戦うことなど全く不可能であり…『襲撃機隊員決死隊同然だ』と公言する者さえおり、勇気欠如した一部搭乗員は、自らの命を惜しむあまり怯懦振舞い恥じぬようになりつつある」と証言している。襲撃機隊がドイツ空軍戦闘機により大きな損害被ったことを受け、1942年10月にはUBT[ベレジン汎用旋回機関銃]を装備した複座型Il-2生産開始された。複座型により損害率減少したが、照準困難さから対地攻撃能力低下した現場で戦術改良される同時に航空軍効率的な運用はかられ赤色空軍組織改革実施された。 1942年5月5日第1航空軍創設されたのを皮切りに、同じ年の末までには、他の正面軍所属航空隊全て航空軍へと改組されていった同時に、最高司令部の予備戦力たる航空軍団が編成され、さらに混成航空師団混成航空連隊同一機種部隊再編するという作業が行われた。 しかし1942年には熟練搭乗員損失による練度低下が深刻となり、ドイツ空軍との技量の差が戦場であきらかとなった赤色空軍戦闘機隊は空戦機動技量極めて稚拙であり、陣形連携無視してバラバラ戦った1942年9月スタフカ代表G.K.ジューコフ上級大将と全ソ共産党ボリシェヴィキ中央委員会書記G.M.マレンコフ赤色空軍総司令官ノヴィコフ将軍が、最高総司令官I.V.スターリン宛てて赤軍戦闘機隊の活動に関する報告書送付した。 「小職らは直近の6~7日にわたり、我が戦闘機航空隊活動観察した数多く事例から判断するに、我が戦闘機航空隊戦いぶり極めて拙劣であると断言せざるを得ない。敵戦闘機より数倍の優勢にある時でさえ、我が軍戦闘機戦い挑もうとしないのである。また襲撃機護衛任務与えられ場合であっても、やはり敵戦闘機に対して向かっていこうとはせず、結果として敵に自由な襲撃機攻撃撃墜機会与えている。この間我が軍戦闘機離れたところを飛んでいるか、すぐに離脱して基地帰ってしまう状況すらしばしば生じている。遺憾ながら、この報告内容は、いくつかの固有事例にとどまるものではない。我が軍は、上述如き戦闘機隊の恥ずべき振る舞いを、毎日のように目撃しているのである小職らも自らの目で10下らぬ事例確認することとなった一方戦闘機隊の評価すべき行動一度たりとも観察できていない…」 戦闘機隊の技量だけでなく両軍戦闘機性能にも大きな差があった。ドイツ軍戦闘機はプロペラ・エンジン自動制御ユニット搭載し燃料と空気の混合冷却水及び潤滑油温度過給機プロペラ回転速度自動的に調節できた。搭乗員空戦機動専念することが可能であり、調整手動で行うしかない赤色空軍戦闘機隊に対しドイツ空軍大きなアドバンテージ持っていた。 赤色空軍研究委員会赤色空軍ドイツ空軍相手航空優勢を保つには2倍の戦力必要だ結論付けている。 スターリングラードの戦いがはじまると赤色空軍一つ戦区航空支援集中させるやり方採用した航空支援の不足はドイツ軍防衛ライン再編する余裕与え赤軍攻勢頓挫させる大きな要因となっていた。大規模な戦果期待するなら、地上の諸兵科が行動する場所と時間合わせ前線の狭い範囲空軍大部隊を投入しなければならないという認識は、今や赤軍航空隊と諸兵科軍の全ての指揮官共有され空軍地上軍共同作戦組織化し対地攻撃機運用法改良することが求められていた。地上からの航空誘導指揮用無線機材が持ち込まれ空軍から派遣され連絡将校地上攻勢軍に同行したスターリングラードの戦いでは地上軍空軍組織的協力実現し赤軍枢軸軍防衛ライン破り包囲することに成功した空中でも赤色空軍戦闘機隊が反撃転じていた。1942年秋まではドイツ空軍かろうじて優位であった制空権も、季節冬に入ると、暴風雪霧の影響稼働率極端に下がった1942年末の1週間におけるドイツ軍損害の約半数天候による事故であったという。これに反し赤色空軍は「冬将軍」という味方とともにYak-9D戦闘機Pe-2爆撃機中心に反攻し、ドイツ500機と1000人のパイロット殲滅した。ここに至りスターリングラード制空権奪回した。この逆転劇可能にした要因には、天候恵まれた事だけでなく、レニングラード他の工場壊滅的破壊されたあとでも、東部カザンクイビシェフといった僻地工場疎開移転し新鋭機を製造し続けることができた事、初期損害大部分地上撃破よるもので、搭乗員損害があまり無く再編後一線補充し得た事、連合国よりの機体供与受けられたことなどがあげられる両国航空機生産にも大きな差がひらきつつあり、1942年度のソ連戦闘機生産は、おおよそ9300機で、これに連合国より供与されトマホークハリケーンを含む援助機が2200機あった。これに対しドイツ1942年度の戦闘機生産は4600機にすぎなかった。

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ニューオーリンズ (重巡洋艦)」の記事における「1942」の解説

真珠湾攻撃後ニューオーリンズ機関修理切り上げ、4基の内3基を動かしてジョンストン島およびパルミラ環礁への輸送船団護衛就いたその後新型レーダー20ミリ機銃装備のため1942年1月13日サンフランシスコ回航された。整備が終わると、ニューオーリンズ2月12日ブリスベン行き輸送船団ヌメアまで護衛した後に真珠湾向かい第11任務部隊合流した4月15日第11任務部隊ニューヘブリディーズ諸島空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊英語版)(フランク・J・フレッチャー中将)と合流巡洋艦駆逐艦部隊とともにオーストラリアおよびニュージーランドを突かんとする日本軍南進阻むべく行動した5月7日から8日にかけて発生した珊瑚海海戦では、ニューオーリンズは、被弾して大きく損傷し炎上する空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) に横付けしてレキシントン乗組員救助したニューオーリンズレキシントン乗組員580名を救助し終わって離れた直後レキシントンは大爆発起こし如何ともし難い状態になったニューオーリンズヌメアレキシントン乗組員上陸させた後、東ソロモン経て真珠湾帰投した。 5月28日ニューオーリンズエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6)、ホーネット (USS Hornet, CV-8) 基幹第16任務部隊レイモンド・スプルーアンス少将とともに真珠湾出撃し、6月2日ミッドウェー島北東海上で第17任務部隊合流2つ任務部隊南雲忠一中将率い第一航空艦隊中心とする日本艦隊激突ミッドウェー海戦生起した。第一機動部隊三空母、赤城加賀蒼龍クラレンス・マクラスキーSBD ドーントレス奇襲により炎上後、残った飛龍からの攻撃隊がヨークタウン襲い、3発の爆弾命中させた。飛龍撃沈し4空母を壊滅させたが、ヨークタウン大きく損傷して放棄された。ニューオーリンズ海戦損傷するともなく真珠湾帰投した。 7月7日ニューオーリンズ空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) 基幹機動部隊護衛して真珠湾出撃し、フィジー経由してソロモン方面向かった8月24日から25日にかけては日本機の空襲見舞われたが、撃退した第二次ソロモン海戦)。8月26日ニューオーリンズガダルカナル島上陸した部隊援護務め珊瑚海海戦からおよそ2ヶ月ぶりに珊瑚海行動した8月31日サラトガ伊26雷撃損傷すると、ニューオーリンズサラトガ護衛して9月21日真珠湾帰投した。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 18:08 UTC 版)

タスカルーサ (重巡洋艦)」の記事における「1942」の解説

1942年1月6日タスカルーサウィチタおよび駆逐艦グレイソン (USS Grayson, DD-435) およびメレディス (USS Meredith, DD-434) とともに出撃し、デンマーク海峡訓練行ったボストン向かい1月8日から2月20日までボストン海軍工廠オーバーホール入ったオーバーホール後、タスカルーサカスコ湾訓練行ったニューヨーク向かい戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) 基幹の第39.1任務群(ジョン・W・ウィルコックス英語版少将)に合流した。第39.1任務群はカスコ湾からスカパ・フロー向かったが、その途中3月27日ワシントン艦内からウィルコックス少将の姿が消えたタスカルーサは、ワシントン左舷側から嵐の大西洋中に人が転落するのを目撃していた。ウィルコックス少将行方不明により、第39.1任務群の指揮権はギッフェン少将移譲された。 タスカルーサ4月4日スカパ・フロー到着し、まずイギリス海軍制式信号連携を取る訓練が行われた。その後イギリス本国艦隊ジョン・トーヴェイ大将)との訓練従事した後、ソ連向けの輸送船団護衛出動したこの頃英米軍はノルウェーフィヨルド内で静まり返るティルピッツ誘い出し試みていた。しかし、誘い出し成功しかったばかりか、1942年6月にはPQ17船団大損害を受けたソ連向け船団運行は約2ヵ月停止しその間船団運用方法について検討された。 8月中旬タスカルーサソ連向けの航空魚雷弾薬および医療機器含んだ物資を運ぶため、駆逐艦2隻に護衛されコラ半島向かったが、1人乗組員髄膜炎兆候見せたため、セイジスフィヨルズル (Seyðisfjörðurセイディスフィヨルドとも) で件の乗組員降ろした上で8月19日出港した翌日タスカルーサドイツ偵察機発見されたが、進路変えた上で悪天候中に姿をくらませることによって、敵襲避けた8月22日に2隻のイギリス駆逐艦タスカルーサ合流し翌日出迎えソ連海軍護衛艦誘導受けてコラ半島入ったタスカルーサ物資下ろし代わりに243人の船客乗せた。この船客大部分は、先のPQ17船団受難における生存者だった。8月24日タスカルーサコラ半島を後にして、28日セイジスフィヨルズル到着クライド川河口向かい船客降ろしたその後タスカルーサ本国艦隊から外れハヴァルフィヨルド経由してアメリカ帰国し短期間オーバーホール受けた11月8日開始されトーチ作戦において、タスカルーサは第34.1任務群(ギッフェン少将)の一艦としてウィチタ戦艦マサチューセッツ (USS Massachusetts, BB-59) とともにカサブランカ沖でヴィシー政権海軍交戦カサブランカ沖海戦)する一方カサブランカ港湾ヴィシー政権側の船舶に対して艦砲射撃行い船舶港内でのた打ち回っていた。港内にいた戦艦ジャン・バール稼動可能な主砲沿岸砲とともに反撃したが、やがて空襲により沈黙させられた。タスカルーサジャン・バールからの反撃潜水艦雷撃受けた被害なく、補給の後カサブランカ沖で哨戒行い改装のためアメリカ戻った

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/06 09:06 UTC 版)

スワニー (護衛空母)」の記事における「1942」の解説

1ヵ月後、スワニーハンプトン・ローズ出撃し、トーチ作戦参加するため北アフリカ海域向かった途中でレンジャー (USS Ranger, CV-4) と合流したスワニーは、中央攻撃部隊とともにフェドハラ(モハメディア)(英語版近海通過して北方から主目標であるカサブランカ目指した。11月8日早朝モロッコ沖に到着したスワニーは、数日間わたってF4F ワイルドキャット飛ばして空中哨戒対潜哨戒行いTBF アヴェンジャーレンジャー航空機合同爆撃任務就いた11月8日から11日にかけて繰り広げられカサブランカ沖海戦の間、スワニー航空機255出動し戦闘行為で3機、運用上の事故で2機を喪失した11月11日スワニー哨戒機はフェドハラ・ローズ(英語版)でUボート発見して攻撃し撃沈した報告した。しかし、実際にはその潜水艦は、カサブランカから出撃してきた3隻のヴィシー政権側の潜水艦のうちの1隻だった。いずれにせよスワニー対潜攻撃初め戦果挙げた護衛空母となり、護衛空母による対潜任務十分に通用する事を立証したスワニー11月中旬まで北アフリカ海域行動した後、バミューダ諸島経由ノーフォーク向かい11月24日ハンプトン・ローズ帰投した。その後12月5日出港して南太平洋向かったスワニー12月11日から12日にかけてパナマ運河通過し1943年1月4日ニューカレドニア到着した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 11:36 UTC 版)

ポートランド (重巡洋艦)」の記事における「1942」の解説

日本軍による真珠湾攻撃当日、第12任務部隊空母レキシントン重巡シカゴポートランドアストリア駆逐艦5隻)は、アメリカ海兵隊航空機輸送するためミッドウェー島に向かう途中だった。南雲機動部隊捕捉撃滅するため反転してハワイ近海にもどり、また重巡インディアナポリスブラウン中将旗艦)も第12任務部隊合流した索敵おこないつつ、12月14日真珠湾帰投した。 1942年昭和17年初頭アメリカ海軍健在空母活用して日本軍進攻阻止しようとしていた。だが大型空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) は1月12日伊6雷撃され大破したポートランド1942年昭和17年5月まで西海岸ハワイフィジー作戦活動行った南太平洋進出したポートランドは、フレッチャー提督率いる第17任務部隊英語版)の指揮下にはいり、トーマス・C・キンケイド少将率い攻撃部隊所属して空母ヨークタウンフレッチャー提督旗艦)と空母レキシントンフィッチ提督旗艦)を護衛したこの頃日本軍南洋部隊指揮官井上成美中将第四艦隊司令長官)はパプアニューギニアポートモレスビー占領目指しMO作戦発動し珊瑚海展開した。第17任務部隊珊瑚海進出し日本軍激突する。これが珊瑚海海戦である(珊瑚海海戦両軍戦闘序列)。5月7日、クレース(英語版少将率いるクレース部隊英語版)が日本軍輸送船団撃滅のため分離したので、ヨークタウンレキシントン護衛艦艇はさらに減ってしまった。 5月8日戦闘で、日本軍MO機動部隊所属する第五航空戦隊瑞鶴翔鶴)より69機の攻撃隊が発進し、第17任務部隊攻撃をおこなう。ポートランド含め、各艦は空母2隻を守りきれなかった。7日から8日にかけての航空戦日本側は軽空母祥鳳5月7日)が沈没し空母翔鶴損傷したアメリカ側5月7日タンカー1隻と駆逐艦1隻が沈没8日戦闘空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) が沈没し空母ヨークタウンUSS Yorktown, CV-5)が損傷したレキシントン駆逐艦フェルプスにより雷撃処分されポートランドレキシントン生存者722名を救出した。第17任務部隊南方離脱したポートランドは、新艦長ローレンス・T・デュボース大佐迎えた5月31日、第17任務部隊真珠湾出撃した。続くミッドウェー海戦における重巡2隻(ポートランドアストリア)はひきつづきフレッチャー提督率いる第17任務部隊所属し空母ヨークタウン護衛おこなった本作戦には空母2隻(エンタープライズホーネット)を基幹とする第16任務部隊司令官スプルーアンス提督)が参加し先任フレッチャー提督空母3隻を指揮したミッドウェー海戦戦闘序列)。 日本時間6月5日連合軍時間6月4日)の戦闘で、まず日本主力空母3隻が被弾炎上すると、第二航空戦隊司令官山口多聞少将唯一健在空母飛龍から攻撃隊を発進させた。第17任務部隊空母ヨークタウン重巡アストリアポートランド駆逐艦部隊)は輪形陣形成し重巡2隻はヨークタウン斜め前両舷に配置されていた。アメリカ側F4F ワイルドキャットと各艦の対空砲火九九艦爆12機を撃墜したが、ヨークタウン爆弾3発が命中したフレッチャー提督旗艦アストリア変更したポートランドヨークタウン曳航命じられたが、ヨークタウン応急修理成功して行動可能になったので、曳航とりやめられた。 しばらくすると友永丈市大尉率い飛龍第二次攻撃隊(零戦6、艦攻10)が出現し、第17任務部隊攻撃するアストリアポートランドは、第16任務部隊から派遣された4隻(重巡ペサンコーラ、ヴィンセンス、駆逐艦ベンハムバルチと共に速力20ノット程度ヨークタウン護衛したF4F邀撃対空砲火友永隊長ふくめ艦攻5機と零戦3機を撃墜したが、ヨークタウン魚雷2本が命中したヨークタウン放棄され乗組員護衛艦艇に移乗した。アストリアポートランド含めて各艦は第16任務部隊合流した駆逐艦ヒューズ英語版)だけがヨークタウンにつきそった。アメリカ軍曳船ヴィレオ(英語版)と駆逐艦5隻でヨークタウン曳航試みたが、伊号第百六十八潜水艦捕捉される。伊168雷撃よって空母ヨークタウン駆逐艦ハムマン沈没した連合軍側は空母1隻と駆逐艦1隻の沈没引き換えに、日本主力空母4隻と重巡三隈撃沈し勝利したヨークタウン沈没したので、ポートランド新鋭戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) および新型軽巡洋艦アトランタ (USS Atlanta, CL-51) と共に第16任務部隊司令官トーマス・C・キンケイド少将)に配備され空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) を護衛するフレッチャー中将率いる第61任務部隊英語版)には、空母3隻(サラトガエンタープライズワスプ)が所属していた。8月7日から9日にかけて、第61任務部隊ソロモン諸島ガダルカナル島ツラギ島上陸する海兵隊支援を行う(ウォッチタワー作戦連合軍戦闘序列)。その後、第61任務部隊は同海域留まり連合軍補給線防衛任務従事した第一次ソロモン海戦)。 8月23日から25日にかけて行われた第二次ソロモン海戦連合軍呼称、東ソロモン海戦両軍戦闘序列)では、連合軍は第18任務部隊空母ワスプ基幹)を燃料補給のため後退されており、第17任務部隊空母ホーネット基幹)も真珠湾出撃たばかりで間に合わなかった。フレッチャー提督手持ち空母2隻(サラトガエンタープライズ)で日本艦隊迎え撃った艦上機基地航空隊空襲により空母龍驤輸送船金龍丸および駆逐艦睦月撃沈し日本軍ガダルカナル島への増援阻止することに成功した日本側も第一航空戦隊翔鶴瑞鶴)から九九式艦上爆撃機基幹とする攻撃隊を送り込む第11任務部隊旗艦サラトガ)が日本艦隊と距離をとったので、第16任務部隊エンタープライズノースカロライナポートランドアトランタ駆逐艦隊)が一航戦攻撃隊の矢面にたったF4F邀撃加えて、直衛艦は対空砲火九九艦爆次々撃墜した。だが、翔鶴艦爆隊が弾幕突破して空母エンタープライズ爆弾3発を命中させ、数発の至近弾を与えたエンタープライズ中破して後退余儀なくされ、同艦所属機ガダルカナル島ヘンダーソン基地配備された。修理のためエンタープライズ戦線離脱し9月10日真珠湾到着したその後ポートランドは一旦引き返し部隊に再合流するためアトランタ級軽巡洋艦サンフアン (USS San Juan, CL-54) を伴って南太平洋向かった。その途中10月15日マーロン・S・ティスデール英語版少将指揮下のポートランドサンフアンタラワ南方通過中、砲撃訓練兼ねてタラワ近海日本軍艦艇襲撃する日本軍タラワ守備隊接近するポートランド日本軍輸送船勘違いしており、砲撃開始直前にようやく異変に気付いた測量艦筑紫至っては、発砲されるまでポートランド最新鋭大和型戦艦武蔵思っていたという。ポートランドは、まずタラワ在泊の測量艦筑紫に対して艦砲射撃行い次いでタラワ入港しつつあった特設巡洋艦浮島丸大阪商船、4,730トン)、特設給糧艦日立丸(日産汽船、6,540トン)、駆逐艦夕凪(第29駆逐隊に対して砲撃行った。さらにSOCシーガル水上観測機発進させ、着弾観測小型爆弾による空襲実施させた。ポートランド砲撃空襲により、筑紫内火艇沈没した他、日立丸の便乗者に死傷者出たタラワでは艦砲射撃がはじまると共に、同島守備隊の横須賀鎮守府第六特別陸戦隊民間人抑留者を含む捕虜22名を処刑してしまった。『戦史叢書62巻』では「横六特司令は、この米巡洋艦来襲を、当時各島掃蕩の際、捕えた捕虜奪還前兆判断していた。」と記述している。 約30分間艦砲射撃後、ポートランドタラワ島目前水上偵察機回収し、同島から離れていった。ポートランドタラワのほかアベママ英語版)、マイアナの両環礁に対して砲撃行いサンフアン赤道以南ギルバート諸島内を遊弋する日本軍特設監視艇2隻が配備点で「敵巡洋艦交戦」を報告したあと行方不明となった。この巡洋艦サンフアンであった日本側は反撃のため九七式大艇一式陸攻繰り出したが、アメリカ巡洋艦2隻は立ち去った後だった。 10月26日南太平洋海戦連合軍呼称サンタクルーズ諸島沖海戦両軍戦闘序列)において、戦艦サウスダコタUSS South Dakota, BB-57)、重巡ポートランド軽巡サンフアンキンケイド提督指揮する第16任務部隊所属し空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) を護衛した26日朝、第一航空戦隊翔鶴瑞鶴瑞鳳第一次攻撃隊の攻撃により、第17任務部隊空母ホーネット (USS Hornet, CV-8) が戦闘不能となったつづいて一航戦第二次攻撃隊の攻撃で、エンタープライズ爆弾3発が命中雷撃により駆逐艦ポーター (USS Porter, DD-356) が沈没駆逐艦2隻が被弾機に突入された。ポートランドには魚雷3本命中したが、不発であった一航戦第二次攻撃隊は「翔鶴隊:敵航空母艦一隻爆撃六弾命中、続イテ攻撃セル瑞鶴艦攻隊ノ成果相俟テ之ヲ撃沈駆逐艦一隻大破炎上 敵機一機撃墜」「瑞鶴隊:航空母艦一(エンタープライズ型)撃沈戦艦一(サウスダコタ型)轟沈巡洋艦一(艦型不詳)撃沈駆逐艦一大敵機八機撃墜」と報告したこのあと第二航空戦隊空母隼鷹攻撃や一航戦第三次攻撃隊の空襲があったが、アメリカ側決定的な損害はなかった。一連の戦闘連合軍側は空母ホーネット駆逐艦ポーター喪失する空母エンタープライズ大破の他に、戦艦サウスダコタ軽巡サンフアン等が若干被害をうけた。 2週間後、ポートランド第三次ソロモン海戦参加する万全の状態ではなかったエンタープライズは、ハルゼー提督から「ガダルカナル島南方留まりソロモン諸島北方海面進出してならない」と命令されていた。11月12日ダニエル・J・キャラハン少将ノーマン・スコット少将巡洋艦駆逐艦戦隊護衛するアメリカ軍高速輸送船団ターナー提督)はガダルカナル島到着ルンガ岬沖合揚陸作業開始した連合軍艦隊一式陸上攻撃機による二度空襲撃退したが、12日対空戦闘旗艦サンフランシスコUSS San Francisco, CA-38)が小破同士討ち駆逐艦ブキャナン英語版) (USS Buchanan, DD-484) が損傷輸送船3隻が小破した。 この時、日本陸軍38師団ガダルカナル島輸送関連し、同島のヘンダーソン飛行場艦砲射撃実施するため、連合艦隊第十一戦隊司令官阿部弘毅少将指揮する金剛型戦艦2隻(比叡霧島)を中核とした挺身攻撃隊を送り込んでいた。アメリカ軍高速輸送船団避退させると共に、同部隊護衛していた巡洋艦戦隊金剛型戦艦ぶつけたキャラハン少将指揮する巡洋艦戦隊重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦8隻)は、不満を抱きながら金剛型戦艦立ち向かった。これが第三次ソロモン海戦第一夜戦である。アメリカ側問題は、旧式SCレーダー乗せた重巡サンフランシスコ軽巡アトランタ二人将官旗艦であり、最新SGレーダー装備した3隻(ポートランドヘレナジュノー)が単縦陣後方配置されていたことだった。 11月13日午前0時頃よりはじまった夜戦大乱戦となり、「停電した酒場乱闘」と化した。1時58分、ポートランド右舷魚雷直撃を受ける。スクリュー2本を損傷し舵は5度右に傾いた。また3番砲塔の揚弾筒が損傷し砲塔旋回不能となった。舵の損傷バラスト調整による角度修正補われたが、航行要員補充行えず、艦は右方向への旋回余儀なくされた。1度目旋回終わろうとするとき、比叡炎上する他の艦の炎によって照らされるポートランド前方砲塔射撃行った比叡応射したものの命中することはなく、ポートランド8インチ砲4門による一斉射撃比叡直撃弾を与えた日米双方とも大損害を受けたあと健在や行動可能艦は撤退開始アメリカ側艦隊動けるものは撤収し行動不能になったポートランドアトランタなどが戦場残された。午前6時30分、依然旋回であったポートランドは、サボ島の南で損傷した時雨駆逐艦1隻を発見したポートランド放棄され駆逐艦夕立(第2駆逐隊) の船体に対して6マイルの距離から砲撃を行う。駆逐艦五月雨(第2駆逐隊)は夕立乗組員収容したあと同艦自沈処分のため現場に留まっていたが、敵重巡洋艦接近見て戦場離脱していった。6度目一斉射撃の後、爆発がおこり、夕立沈没した。このときサボ島周辺で舵復旧つとめていた比叡は、ルンガ方面距離約24Kmに損傷巡洋艦発見した後部主砲で、この巡洋艦砲撃した比叡砲撃命中しなかった。 ポートランドアイアンボトムサウンドからの離脱成功した上陸用舟艇および港内哨戒艇タグボート支援を受け、ポートランド11月14日ツラギ島停泊した続いてオーストラリアシドニー曳航され応急修理施されるサモアおよび真珠湾経由して1943年3月3日メア・アイランド海軍造船所到着したローレンス・T・デュボース艦長少将昇進しポートランド別れ告げた

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