スターリングラード攻防戦
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スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、英語: Battle of Stalingrad, 1942年6月28日 - 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。
注釈
- ^ 朝鮮戦争中に30代で韓国軍の参謀総長を務めた白善燁大将の『若き将軍の朝鮮戦争 ― 白善燁回顧録』(草思社、2000年)によると、1941年に満州国軍官学校で独ソ戦について講演した関東軍情報参謀の甲谷悦雄中佐は、「間もなくヴォルガ川畔のスターリングラードという街で一大決戦が行われるだろう。そして、この決戦の勝者が世界を制する」と予言した。当時生徒だった白将軍は戦後に甲谷と再会する機会もあったが、スターリングラードに関する予言の根拠について、惜しいことに聞く機会を逸したという。
- ^ ザイツェフは映画『スターリングラード』のモデルとなった。彼の狙撃銃は市内の戦争記念館に保管されている。
- ^ 現在、ママエフ・クルガンにはソ連の戦勝を記念した、巨大な「母なる祖国の像」が立つ。
- ^ パブロフが立てこもった建物は、「パブロフの家」としてヴォルゴグラード市内に戦争遺跡として保存されている。
- ^ 23万余りという説もあるが、参謀本部のエーバハルト・フィンク大佐は30万4000人という数値をマンシュタインに示している[10]。
- ^ ヒ トラーはこの作戦の成功によってスターリングラードへの回廊を確保して第6軍に補給を送り、ヴォルガへのくさびを維持するつもりだった。一方、第6軍の越冬が不可能であることを十分に知っていたマンシュタインは、せめて動ける将兵だけでも自軍に合流させようとし、ヴォルガの戦線維持はあきらめていた。
- ^ 放送された実際の音声https://www.youtube.com/watch?v=jU51ax4j374
- ^ 軍医部長レノルディーのように投降する将軍が現れる一方、第371歩兵師団長シュテンベル中将のように自決する者も相次いだ。フーベの後任となった第14装甲軍団司令官シュレーマー中将や第16装甲師団長アルゲン中将のように戦死する将官も増えた。こうした状況を見た第51軍団のフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ大将は、配下の師団長たちに降伏の権限を委ねたため、憤ったパウルスに任務を解かれている。ザイトリッツはソ連赤軍に投降したが、ソ連兵に連行される際に第8軍団のハイッツ中将から降伏する者を撃つよう命令を受けたドイツ兵の機銃掃射を受けて仲間を失った。しかし、ハイッツ中将も秘かに投降用の白旗がわりにテーブルクロスを部下に保管させていたという。
- ^ こうしたプロパガンダをソ連政府は逆用し、膨大な数の捕虜がいることを海外放送で発信し、モスクワ駐在の外国人記者の前にパウルスと将軍たちを引き出して撮影させ、さらには捕虜に家族宛ての書簡を書かせたうえでドイツ軍陣地に散布した。当然、司令部はそれらの回収と焼却に奔走したが、ドイツで帰りを待っている家族に夫や父親、息子が現時点では生存していることを知らせようと配慮して投函した将兵も少なくはなかった。
- ^ ヒトラーの甥(姉の子)であるレオ・ルドルフ・ラウバル(ヒトラーの愛人と噂されたゲリ・ラウバルの弟)は負傷していたもののヒトラーに仲間と戦うよう命じられ、捕虜となったが戦後に解放されて帰国した。他にもう一人の甥(異母兄の子)ハインツ・ヒトラーも捕虜となるが捕虜収容所で死亡した。従兄弟の子ハンス・ヒトラーも従軍していたが、からくも包囲網を逃れる事ができた。また、アルベルト・シュペーア軍需相の弟エルンスト一等兵もこの戦いで行方不明となっている。
出典
- ^ Bellamy, (2007)
- ^ “8 Things You Should Know About WWII's Eastern Front”. HISTORY.com. 2015年11月19日閲覧。
- ^ Bergström, Christer, (2007), Stalingrad - The Air Battle: 1942 through January 1943, Chevron Publishing Limited
- ^ Россия и СССР в войнах ХХ века - Потери вооружённых сил, Russia and USSR in wars of the XX century - Losses of armed forces, Moskow, Olma-Press, 2001.
- ^ #ワシントンp.180
- ^ 山崎雅弘「戦略分析・ブラウ作戦」(『歴史群像』122、2013年11月)
- ^ 映像の世紀より
- ^ Joachim Stempel(Will Fowler: Schlacht um Stalingrad. Die Eroberung der Stadt – Oktober 1942. Wien 2006, S. 83.)
- ^ スターリングラード「運命の攻囲戦 1942-1943」p.269
- ^ アレクサンダー・シュタールベルク『回想の第三帝国』下巻 59頁
- ^ スターリングラード「運命の攻囲戦 1942-1943」p..358
- ^ Ansgar Diller: Die Weihnachtsringsendung 1942. Der Produktionsfahrplan der RRG. In: Rundfunk und Geschichte. Mitteilungen des Studienkreises Rundfunk und Geschichte – Informationen aus dem Deutschen Rundfunkarchiv. Jahrgang 29 (2003), Heft 1/2, S. 47 (51); Wilhelm Bartholdy: Deutsche Kriegsweihnacht 1942. Eine Rückschau auf die Weihnachtsringsendung. In: Reichsrundfunk. Jahrgang 1942/43, Heft 21 (10. Januar 1943), S. 401 (405).
- ^ a b シュタールベルク(1995年)、59頁。
- ^ Haupt, Werner (1998). Army Group South: The Wehrmacht in Russia 1941-1945. Atglen, PA: Schiffer Publishing. pp. 211–212. ISBN 0-7643-0385-6
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