伝説・伝承
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奈良市の告示「市徽章ノ件」は、当時の学問水準がまだ充分でなかったために間違いが多い。 奈良の旧都に美しい八重桜があった事実は『詞花和歌集』『袋草子』『沙石集』『徒然草』などの文献に、また江戸時代の図譜として残されている。 江戸時代初期、1678年に出版された『奈良名所八重桜』は奈良の八重桜について記述している。『奈良名所八重桜』は名所案内記に名をかりたフィクションであり、東大寺、興福寺はじめ作り話が多い。北川尚史は評して「講談師見てきたようなウソをつき」と記している。記述によると、天平時代、聖武天皇は三笠山奥の谷間で美しい八重桜を見つけ、その八重桜の話を光明皇后にしたところ、光明皇后は一枝でも構わないから見てみたいと大変興味を持った。聖武天皇の臣下たちは気をきかせ、その八重桜を宮中に移植した。以来、春ごとにその桜を宮中の庭で楽しみ続けられたという。まさに講談師の演目そのものである。天理大学の教授はこの書を絶賛している。すでに和田萬吉(1916)はこの書を「往々荒唐無稽に陥り、かの愚夫愚婦の迷信を助長する縁起集を読み行くが如き感あり」としている。 ナラノヤエザクラは伊勢大輔の詠んだ和歌により名高い。 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな 『七大寺巡礼私記』には、奈良の都の八重桜が植わっていた場所と開花時期が記載されている。記載によると、奈良の八重桜は興福寺の東円堂にあり、他の全ての桜が散ってから咲く遅咲き桜であったとされる。 於興福寺東門之北脇、其堂※1南門之西脇有櫻樹所謂奈良都之八重櫻是也、古傅云、此櫻一切櫻花散之後、始以開敷、是爲奇特云ゝ※2アハレテフコトヲアマタニヤラシトヤ、ハルニヲクレテヒトリサクラム※3
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伝説・伝承
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「湯之谷温泉 (愛媛県)」の記事における「伝説・伝承」の解説
『伊予国風土記』によると、太古の昔、大国主命が少彦名命の命を蘇生させようと別府からこの地(道後温泉との説もある)へ地下から温泉を引いたとされている。 斉明天皇が訪れた際、湯を石で囲い入湯したという伝説が残っている。また、橘新宮神社の資料には『日本紀斉明天皇7年、鎮西征伐の勅を下し給ひ大伯海時を船将として、太田姫と共に御船にあらせしが、月満時至るとも安産の様なく、此の石湯行宮に詣で、安産の祈り有りけるに、一人の霜姫を生み給ふ、号して大伯皇女と云ふ』との古記も残っている。このことにより、後に祠を建て石湯八幡宮と名付け、病傷の治癒に用いられ霊泉として崇め奉られ現在に至っている。
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伝説・伝承
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松虫・鈴虫 松虫、鈴虫は今出川左大臣の息女で姉は19歳、妹は17歳、共に容色優れて麗しく、後鳥羽上皇に召され、殊のほか寵愛されたが、1206年(建永元年)12月9日上皇が紀州熊野へ参詣の不在中、法然の弟子住蓮・安楽の獅子谷の六時礼讃念仏会に参詣し、帰依渇仰のあまり剃髪出家して名も妙智、妙貞と改めた。上皇はこのことを聞き憤怒して住蓮・安楽は死罪、法然は四国遠流になった。両名は上皇の追補を逃れ妙念尼を頼り来島、念仏三昧の生涯を過ごし、松虫は1222年(元仁元年)11月18日36歳で、鈴虫は1235年(嘉禎元年)4月29日45歳で亡くなったという。 白檀の大樹 法然、四国への配流の途中にこの寺に迎えて妙念尼・妙智・妙貞はその説法を受けた。 そのおりに法然が自らの杖「白檀の杖」を当時の境内に差し「わたしが弘める教えは、ただ南無阿弥陀仏と唱えていれば誰でも苦しみや悩みが消えて救われるという教えであるが、古い仏教を信じている人々は、この教えをまちがっていると反対している。もし、本当にこの教えが正しければ、この杖から芽が出、枝が出てくるだろう。」という意味の言葉を残した。しばらくして、杖から枝が生えそれが大きく育ったという。今境内にあるイブキビャクシンの老木のことである。 大樹の逆枝 白檀の大樹はそのまま勢い良く育っていったが、枝が境内地を越え田畑へと延びていった。日が翳ることを心配した村人が大樹の枝を払うことを相談していたが、一夜にして枝が向きを変え境内へと延びていた。 法然上人流血の尊像 法然が自ら刻んだ木像を安置していたが、江戸時代初頭に黒谷金戒光明寺が焼失、幕命により上人像を送り出した。その後、当寺の住職が上人の夢を見、檀徒の池田市左衛門を使いとして彫刻師を求めて上方へ向かう途中、岡山の宿で偶然堺の仏師藤原源太夫と出会った。その言によると法然上人の霊夢によって生口島に下っているという、そこで共に帰り来たって上人の像を刻んだ。池田氏試みに像の喉元にあたる部分にノミを突き当てれば鮮血ほとばしり出でた、いまだにその後が薄黒く残るという。
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伝説・伝承
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日光市・男体山の北西麓の戦場ヶ原には、男体山の神と赤城山の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめた、という伝説がある。赤城山の北にある老神温泉の地名は、このとき落ち延びた神が追われてやってきたことに由来するといわれ、「アカギ」という山名も神が流した血で赤く染まったことから「赤き」が転じたという説もある。戦場ヶ原で負けた赤城山の神は老神温泉で傷を癒した後に男体山の神を追い返したという。 また、開湯伝説では、赤城山の神が大蛇、男体山の神が大ムカデとなっており、大蛇が勝利したという説になっている。 江戸川沿いにある千葉県流山市には、赤城神社の祀られた小山があり、大洪水の際に赤城山の山体の一部が流れてきたものだ、という伝説がある。「流山」という地名はこれに由来するという。 赤城山といえば、上州の侠客・国定忠治で有名であり、明治、大正、昭和初期に講談や新国劇の題材として大人気だった。国定忠治の一節「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ) たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」の台詞で、この山の名前が全国に広がった。忠治に因んでか赤城山の岩穴で賭場が開帳された時代があったが、明治時代に取り締まりの強化で一掃されている。
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伝説・伝承
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昔から日本では、ネコが50年を経ると尾が分かれ、霊力を身につけて猫又や化け猫になると言われている。それを妖怪と捉えたり、家の護り神となると考えたり、解釈は様々である。この「尾が分かれる」という言い伝えがあるのは、ネコが非常な老齢に達すると背の皮がむけて尾の方へと垂れ下がり、そのように見えることが元になっている。またスコットランドやハイランドでは同様にネコの妖精ケット・シーの逸話が存在する。 猫又に代表されるように、日本において「3年、または13年飼った古猫は化ける」あるいは「1貫、もしくは2貫を超すと化ける」などと言われるのは、付喪神(つくもがみ)になるからと考えられている[要出典]。『鍋島騒動』を始め、『有馬の猫騒動』など講談で語られる化け猫、山中で狩人の飼い猫が主人の命を狙う『猫と茶釜のふた』や、鍛冶屋の飼い猫が老婆になりすまし、夜になると山中で旅人を喰い殺す『鍛冶屋の婆』、歌い踊る姿を飼い主に目撃されてしまう『猫のおどり』、盗みを見つけられて殺されたネコが自分の死骸から毒カボチャを生じて怨みを果たそうとする『猫と南瓜』などは、こういった付喪神となったネコの話である。 ほかにも日本人は「招き猫」がそうであるように、ネコには特別な力が備わっていると考え、人の側から願い事をするという習俗があるが、これらも民俗としては同根、あるいは類似したものと考えられる。 以下、ネコにまつわる日本の妖怪変化の数々を紹介していく。これらの話は、ネコが死と再生のシンボルでもあったことの名残りであろう。 死者に猫が憑く(岐阜県) 飛騨国大野郡の丹生川村(現・岐阜県高山市丹生川町)では、ネコが死者をまたぐと「ムネンコ」が乗り移り、死人が踊り出すと言われ、ネコを避けるために死者の枕元に刃物を置く、葬式のときにはネコを人に預ける、蔵に閉じ込める、といった風習があった。今日もなお、この言い伝えは廃れていない。 この言い伝えについて、2019年に『岐阜新聞』が調べたところ、岩島周一著『飛騨の諺』(1997年)という書物には旧・丹生川村以外に、旧・上宝村、旧・高山市、旧・荘川村、旧・宮川村、旧・清見村にもよく似た言い伝えがあることが判明した。また、丹生川町の住人から昭和50年代に死者に猫を近づけないようにするという風習があったという証言が得られたが、今は知っている人は少ないことが判明している。。 死者に猫が憑く(佐賀県) 佐賀県東松浦郡でも、死者にネコの霊が憑くと言われ、これを避けるために死者を北枕に寝かせた上でやはり枕元に刃物を置き、着物を逆さにかけるという。 死者の骸(むくろ)を盗む猫(愛知県) 尾張国知多郡(現・愛知県知多郡)の日間賀島に伝わる話では、百年以上も歳経たネコの妖怪を「マドウクシャ」と呼び、死者の骸を盗りにくるため、死人の上に筬(おさ、機織機の部品)を置いてこの怪を防ぐという。これと同じく、火葬場や葬列を襲って屍を奪う妖怪は「火車」と呼ばれるが、その正体はネコであることが多い。 生者にも猫は憑く 生きている人間にネコの霊が憑くという伝承もある。伊予国(現・愛媛県)での話によると、飼い猫を殺した者が、のち精神に異常を来たし、「猫が取り憑いた」と言いながら徘徊するようになったという。 山口県大島郡では、死んだネコのそばを通ると犬神、蛇神に加えて「猫神」に憑かれると言われ、これを避けるために「猫神うつんな、親子じゃないぞ」と唱えるという。 猫の恩返し 貧乏な寺に飼われていたネコが、世話になった恩返しのため、野辺送りの棺を空に上げて、飼い主の和尚に手柄を立てさせる『猫檀家』という説話がある。 一方、ネコを大事にする風習からネコを神として祀る地域もある。 猫神(養蚕との関連) 宮城県の村田町歴史みらい館の調査によると、猫の石碑が宮城県に51基(特に仙南の丸森町に多く分布)、岩手県に8基、福島県と長野県に6基ずつ存在することが確認された。さらに、宮城県には猫神社が10カ所あることも確認された。これは、江戸時代に養蚕が盛んだった宮城県南部で、蚕の害獣だったネズミを駆除してくれるネコに対して興った信仰だったようだと同館は見ている。また、山形県高畠町の猫の宮も同じく養蚕の守り神である。ただし、養蚕が盛んだった群馬県では1基も見つかっていない。 猫神(漁業との関連) 宮城県の仙台湾(石巻湾)に浮かぶ田代島では、「猫神様」が島内の猫神社に祀られている。島では漁業・稲作と並んで、かつて仙南と同様に養蚕が盛んだったためネコを大事にする習慣があったが、猫神は大漁の守護神とみなされており、養蚕との直接的な関係は見られない。同島には昔からイヌはおらず、島内へのイヌの持ち込みも島民から拒否されるほどの「ネコの島」が現在も維持されている。 猫返し 東京都立川市に在る「立川水天宮 阿豆佐味天神社」内の「蚕影神社」は、養蚕が盛んな地域であった当地にあって、蚕の天敵であるネズミを駆除する猫を守り神として祀っており、飼い猫の無事や健康、いなくなった飼い猫の帰還に利益があるとされ、「猫返し神社」として親しまれ、参拝者が訪れている。 愛猫家の間では、中納言行平の詠んだ和歌が猫返しのまじないとして知られている。 立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む — 『百人一首』第16番 使い方としては、歌を書き込んだ紙に、いなくなった猫が使っていた食器を被せておく、食事場所や猫のトイレの場所に貼っておく、上の句だけ書いて器を被せ、帰還が叶ったときに下の句を書きこんで願ほどきをする、などがある。 また、「いなばの山」と「猫返し」に関する伝承として、可愛がっていた猫がいなくなって悲しんでいる下女に、六部がいなばの宇山にいると教える「猫山」の民話が山口県、広島県、鳥取県などで採集されている。
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伝説・伝承
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以下は弘法大師が由来とされる伝説や伝承があるものである。 平仮名 いろは歌 灸 讃岐うどん 手こね寿司 九条葱 エツ - 日本では筑後川のみに生息する魚、絶滅危惧種 曜日 水銀鉱脈の発見 ダウジング 四国に狐がいないのは、弘法大師が鉄の橋が掛かるまで渡ってはならないと狐に命令したからという伝説。20世紀になると、海底ケーブルや瀬戸大橋という「鉄の橋」ができたから狐が来るようになったかもしれない、との後日談が加わった。 見附島 (石川県) 橋杭岩 小倉あん
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伝説・伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 12:30 UTC 版)
799年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、洪水を防ぐ役割を全く果たさなかった。その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていない。また過去には能舞台の鏡板にも杉の絵が描かれ、元旦には門松は立てず杉飾りを立てる。 中央区熊内町の熊内八幡神社付近にある「旭の鳥居」には、砂山に生田神社があった頃の一の鳥居であるという伝承がある。「旭の鳥居」は、元旦に朝日を受けても影を落とさないとされることからこの名がある。 宮司である加藤隆久『生田神社』(学生社、2005年)に歴史も含め詳しい説明がある。 能の生田敦盛では、敦盛の遺児が賀茂明神への祈誓により当地にて亡き敦盛と対面する。
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伝説・伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 23:28 UTC 版)
火除け地蔵 180年以上前、雷で集落全体を覆うほどの大火事が起きた。しかし、燃え盛る集落の民家の屋根に地蔵が上り箕で扇いだところ次第に炎の勢いが弱まり鎮火。集落のほとんどが焼けたが、地蔵のおかげで3軒だけは残った。それからその地蔵は「火除け地蔵」と呼ばれ当初は七兵衛家で祀っていたが、後に集落で祀るようになった。
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伝説・伝承
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諸葛恪は正史のエピソード以外にも、知恵者としての伝承が後世に伝わっている。 諸葛恪が丹陽太守であったころ、狩りで山間に差し掛かった際に子供のような姿の妖怪が現れ、手を伸ばして引っ張ろうとしてきた。伸びた手を諸葛恪が掴み逆に妖怪をその場から引き離すと、妖怪はすぐに死んでしまった。感嘆した部下が、諸葛恪は神通力を持っているのかと尋ねると、諸葛恪は「このことは『白沢図』に書かれている。『山間に住む精は子供のような姿をしており、人を見ると手を伸ばして引っ張ろうとする。名を「傒嚢」といい、その場所から引き離せばすぐに死んでしまう』と。私はこれを知っていて、諸君はたまたま知らなかったというだけだ」と答えた。 恪が淮南を征討して帰ったのち朝廷の会合に出ようとする前夜、目がさえ胸騒ぎもして一晩中眠れなかった。夜が明けて家を出ようとすると飼い犬が着物を加えて引っ張る。恪は「この犬はわしに出ていくなというつもりか?」と言っていったん出たのをまた家にはいり腰を下ろしていたがしばらくしてまた立ち上がると犬のほうでもまた着物を銜える。恪は供のものに命じて犬を追い払わせたがそれから参内すると恪は殺されてしまった。このとき恪の妻は部屋にいたが召使の女から血の匂いがするので問いただすと女は立ち上がって首が屋根まで伸びて腕まくりをしながら「諸葛閣下が殺されたぞ」といった。そこで家人は恪が殺されたのを知ったのである。 孫権が王であった時代、ある人が大きな亀を捕まえたところ、亀は「運悪く捕まってしまった」と呟いた。彼はこれを不思議に思い、孫権に献上しようと建業へと向かった。その途上、亀を憐れんだ桑の古木が亀に話しかけるが、亀はどんなに火を焚こうが煮殺されはしないという。そこで桑の古木は「孫権に仕えている諸葛恪は博識だ、彼は必ず答えを見つけ出し、君と私を殺そうとするだろうから油断しないように」と忠告した。亀が献上されると孫権はこれを煮るように部下に命じるが、どれだけ火を焚いても亀に変化がない。それを見た諸葛恪が「桑の古木を薪とすれば亀を煮ることが出来るでしょう」と孫権に進言した。献上した者がこれを聞いて途上の桑の木のことを話すと、孫権は人を使わしてこの桑の木を切り倒し、これを薪にして火を焚いた。すると立ち所に亀の肉は熟れていき、ついに亀は煮殺されてしまった。
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伝説・伝承
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伝説・伝承
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「安養寺 (富士宮市)」の記事における「伝説・伝承」の解説
安養寺には民間伝承・伝説の説話が複数伝わっている。 狸和尚系 安養寺は狢が持つところであり、また近くには狢の標語や題目が記された「むじな塚」があった。ただ狢(特に狸とされる)にとって犬は恐れの対象であった。お経や葬式のような重要な用事がある際は必ず塚に登り、犬が居ないことを確認できた場合のみ安養寺に戻り支度をした。一方犬が居た場合は動かなかったというものである。いくつかの系統があるとされる。 猫檀家系 猫檀家に関わる伝承もある。内容は時の和尚が猫を可愛がっていたが、あるとき行方が分からなくなってしまった。十年が過ぎた頃、十歳ばかりの小僧が寺を訪れた。その小僧は和尚に対し礼を述べたが和尚は覚えがなかったので問うと、小僧は「昔可愛がってもらった猫である」という旨を述べた。また小僧は、和尚の名を上げるために和尚の前で奇跡的な事象を起こすと宣言した後に消えていった。その三日後に実際にそれが起こったというものである。
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伝説・伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:04 UTC 版)
『捜神記』には、天の使いが糜竺の家に火事が起こることを前もって知らせたため、難を逃れたという話が収録されている。 糜竺が徐州に所有していた広大な農場では、後世になると糜竺は神として祭られた。『太平寰宇記』巻22に引く『水経注』佚文によれば、朐県にある鬱洲島の島民は、全て糜竺が使っていた農奴の子孫である。同じく牛欄村という村は、元々は糜竺所有の荘園・牧場であったという。これらの住民達の間では糜竺を「糜郎」と呼び祭っており、住民が新たに嫁を取る際は「必ず糜郎の神前に見せなければならない、そうしなければ祟りをなす」とまでいわれているため、厳格にこの伝統を守っているという。 『花関索伝』では糜芳とともに関羽を裏切り、花関索によって殺害されている。
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