館林市 歴史

館林市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 12:57 UTC 版)

歴史

  • 旧石器時代縄文時代
    • 紀元前2万年~1万年 - 石器の発見により館林に旧石器時代(2万年前)から人々が住み始めたことが分かった。またそれより後の縄文時代の竪穴建物跡、石器、土器も発見された。当時はこの辺りまでが海であり館林は海への玄関口であった。
  • 弥生時代古墳時代
    • 紀元前300年ころ - 伝衛門遺跡・北近藤第一地点遺跡など150以上の地点で弥生時代の建物跡が発見されている。古墳時代になると天神双子古墳、山王山古墳、淵の上古墳など多数の古墳が作られた。調査の結果この地方は当時の中央政権の勢力下であったようである。
  • 奈良時代平安時代
    • 769年 - 書物『続日本紀』に「邑楽郡」(当時の館林も含むこの地方一帯の名前で、読みはヲハラキ又はオホアラキ)が登場する。ちなみに現在も館林以外の東毛地方を邑楽郡(オウラグン)と言う。
    • 927年 - 書物『延喜式』にも「邑楽郡」が登場する。この当時の邑楽郡内の地名には「長柄・疋田・池田・八田」があると記されている。
    • 1108年 - この時代中世の所領が形成され館林・邑楽一体には藤原氏系譜の佐貫荘が成立した。その後1184年の一ノ谷の戦い後、佐貫荘の佐貫広綱は頼朝の御家人となる。
館林城本丸
  • 鎌倉時代室町時代
    • 1199年 - 頼朝が没し実権が北条氏に移ると佐貫荘など最有力の御家人を次々滅ぼし所領を没収。
    • 1333年 - 南朝新田義貞北朝足利尊氏の対立が激化。館林一帯の佐貫荘は足利、新田両軍に分裂した。
    • 1338年 - 足利尊氏が室町幕府を開く。新田方の佐貫荘は所領を没収された。この頃館林一帯に足利方の佐貫荘の一族、舞木氏が頭角を現す。
    • 1416年 - 関東管領上杉禅秀が、足利持氏と対立。上杉方に舞木氏、岩松氏(新田一族)が加わり参戦する。しかしこの上杉禅秀の乱は鎮圧され禅秀は自害。翌1417年、今度は岩松氏が蜂起するが、この時は舞木氏は足利方として戦い、岩松満純を討ち取りその首を鎌倉へ差し出した。
    • 1454年 - 羽継原合戦が勃発。佐貫荘舞木氏の被官赤井氏が台頭を表す。(赤井、舞木両氏とも足利成氏に重用される。)
    • 1471年 - 幕府・上杉方が足利荘と佐貫荘に侵攻。赤井文三、赤井文六が館林城に籠城して上杉勢と戦う。しかし、館林城は落城。上杉方は古河へ進撃、成氏は敗走した。当時の館林城は上杉方・足利方の中間に位置し両陣営攻防の拠点であった。
    • 1562年 - 上杉謙信(長尾景虎)が館林城を攻める。城主赤井文六は降伏し、忍城(現在の埼玉県行田市)へ落ちのびる。上杉謙信は館林城を長尾景長に与える。景長の没後、長尾家を金山城主次男(現在の群馬県太田市)由良顕長が継ぐ。長尾・由良陣営は「新田・館林・足利」にまたがる一大勢力になった。
    • 1574年 - 長尾・由良陣営は北条氏との関係強化に踏み出す。これに反発した上杉謙信は新田・館林・足利各所に大々的に放火。これを長尾・由良陣営は防戦。
  • 安土桃山時代
    • 1578年 - 長尾氏の下で東毛地域の勧農開拓の為の植林、用水路事業を行い多大なる貢献をした大谷休泊(大谷新左衛門)が没する。
    • 1584年 - 北条氏直が館林城を攻める。翌年落城し館林城は北条氏規に与えられる。館林領は北条氏の直轄領となる。
    • 1590年 - 豊臣秀吉が北条氏討伐のため出兵。石田三成を将とする軍勢2万人を館林城に向かわせる(その他関東の北条氏の城にも攻撃)。館林城側は6千人が篭城。5月22日、石田勢は軍勢を三手に分け総攻撃するも4ヶ月たっても城が落ちなかった。石田勢は館林城東南の大沼(城沼)からの侵攻を計画するも、城攻め用に調達した大量の大木が消失する。北条氏勝から稲荷が館林城の鎮守として祭られていることを知ると、狐の霊験を恐れ開城交渉を申し入れた。城側もこれを受け入れ5月末退散した。この年徳川家康の江戸御打入り。江戸の総奉行で徳川四天王の一人榊原康政が館林城主となり、10万石を領する。康政は8月19日、領内茂林寺に対し寺中への狼藉・竹木伐採・放牛馬についての禁制を下す。
    • 1591年 - 榊原康政が竜興寺に対し寺中への禁制を下す。
    • 1595年 - 榊原康政が利根川、渡良瀬川の両川に計54キロに及ぶ堤防を築く大工事を行う。これにより河川の氾濫が大幅に低下した。
    • 1597年 - 館林城城下町に南北通り(日光脇往還)が完成。また、館林内の薬師堂、善導寺、天神宮、観音堂などを城の西側に移設。その後、成島、当郷、小桑原、谷越、足次の5村の農民を新設の城下町に移住させ町民とする(新町人は地税免除)。館林城を中心に城下町、寺社を配置しその周囲を塀で囲み5つの門を設ける。館林城を江戸にいる徳川の防戦砦として整備した。
    • 1600年 - 関ヶ原の戦いが起こる。榊原康政は徳川家康の子徳川秀忠について参戦する。資金不足で戦いに間に合わなかった秀忠に家康は会おうともしなかったが、康政は身をもって家康に侘び父子の仲直りが実現した。以後秀忠は家康没後も榊原康政に殊遇を忘れなかった。
城沼
  • 江戸時代
    • 1605年 - 榊原康政の愛妾お辻が他の側室の妬みに耐えかねて、城沼に身を投げて自殺。これを知った村の人々がお辻の死を哀れみ生前に愛したツツジの木を1本、城沼の南岸、龍灯の松のかたわらに植え、その霊を慰めた。
    • 1606年 - 5月14日、榊原康政が館林城内で死去し善導寺に葬られる。遺領は三男の康勝が継ぐ。
    • 1617年 - 徳川家康の遺骸が日光山改葬のため、館林城下を通過。
    • 1627年 - 榊原忠次が城沼の南丘にツツジの名木808株を多数移植。領民遊覧のため拡張する。(現在のつつじが岡公園
    • 1661年 - 後の徳川5代将軍徳川綱吉が館林城主となる(館林宰相とよばれた)。館林城は25万石の城となり、また大改築も実施されたため、大変壮大な名城となった。本丸・二の丸・三の丸・屋敷百家・旗本など大名小路は多くの人々で満ち溢れ、館林の繁栄はまるで「江戸の全盛期」のようであったと書物『館林記』に記されている。この時、館林城に近い下野国2郡7村が邑楽郡に編入し、綱吉の新領地に加わる。また、館林城鐘もこの年に鋳造。
    • 1676年 - 過重な年貢に苦しむ名主小沼庄左衛門ら18名が越訴の罪で処刑される(日向義民)
    • 1680年 - 徳川綱吉徳川幕府第5代の将軍に任ぜられ権大納言となる。綱吉の子徳川徳松(当時2歳)が館林城主になる。
    • 1681年 - 病弱な徳川徳松の健康回復を願って儀式(現在の七五三)が行われる。
    • 1683年 - 5月28日午後8時、徳松が病死し、館林城が廃城になる。以後館林は代官が支配する。
    • 1707年 - 徳川綱重の次男越智松平氏松平清武が館林城主になる。館林城の再築に着手。再築費3万1千両。
    • 1718年 - 再築や米価暴落により藩政困窮し、増税を割り当てられた領民が享保の館林一揆(館林騒動[15])を起こす。翌年、首謀者の田谷村名主小池藤左衛門ら3人が処刑される(享保の三義人)。
    • 1837年 - 館林出身の生田万越後国柏崎で乱を起こす(生田万の乱)。襲撃の際の重症をうけ切腹をとげる。享年37。
    • 1845年 - 山形藩より秋元志朝が館林城に入封。幕府の権力衰退の中、江戸の大地震をきっかけに藩政の大改革を断行。多くの江戸の家臣を館林に移した。また、館林藩校の求道館を整備拡充し、造士書院と改称。優秀なものを江戸に遊学させる。
    • 1863年 - 館林藩が雄略天皇陵の修理を完了する。
    • 1868年 - 館林藩は官軍として戊辰戦争を戦う。東北各地の戦功により永世1万石を下賜される。
旧上毛モスリン事務所(館林市第二資料館内)
大日本職業別明細図館林町 昭和9年
旧館林市役所庁舎(現・館林市市民センター)
  • 昭和時代
    • 1936年 - 館林出身の版画家藤牧義夫が「ガード下のスパーク」を出展。1938年には第14回帝展に「給油所」を出品し入選。
    • 1939年 - 館林出身の彫刻家藤野天光ニューヨーク万国博覧会に出展。1947年には日本彫刻家連盟の設立に参加。
    • 1945年 - 米軍機による爆撃を受ける。2月10日に渡良瀬地区が空襲を受け、1人負傷。7月10日にも空襲を受け、3人死亡する。
    • 1954年 - 市制施行により館林町と郷谷、大島、赤羽、六郷、三野谷、多々良、渡瀬の各村が合併し、邑楽郡を離脱し館林市が誕生。初代館林市長は遠藤仁之輔。1956年には市章館林市歌が制定。
    • 1958年 - 11月27日皇太子明仁親王自身の強い意思により、皇室が始まって以来初めて庶民の中から妃が選ばれ、当市とゆかりの深い正田家より正田美智子が選ばれた。
    • 1959年 - 4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子のご成婚当日、当市内目抜き通りにはお祝いする紅白の巨大なアーチや幕が飾られた。全国からマスコミが押しかけ、市内の道路には社旗をはためかせた取材車が走り回った。全市を挙げて奉祝行事を行い、家々には日章旗が掲げられた。
    • 1960年 - 茂林寺北側に広がる茂林寺沼とその一帯の湿原が県の天然記念物に指定される。
    • 1963年 - 館林市庁舎落成記念式典が挙行される。
    • 1970年 - 館林市民憲章が制定。
    • 1972年 - 東北自動車道館林インターチェンジが開通。館林まつりがはじまる。
    • 1974年 - 市制20周年記念。市の花、市の木、市の鳥が制定。館林城三の丸跡に館林文化会館、図書館がオープン。
    • 1978年 - 郷土資料館(現・第一資料館)がオープン。
    • 1981年 - 館林市市役所が現在の新市庁舎に移転する。城沼総合体育館、第二資料館がオープン。
    • 1983年 - 皇太子ご夫妻が、館林に。あかぎ国体ご臨席のため行啓される。
    • 1984年 - 市制施行30周年記念。「館林市民のつどい」を開催。
    • 1986年 - 三の丸芸術ホール、城沼市民プールがオープン。
    • 1987年 - 田山花袋記念館、勤労青少年ホームがオープン。
群馬県立館林美術館
  • 平成時代
    • 1989年 - 約2キロの保安林に彫刻の小径が完成。
    • 1991年 - 館林子ども科学館(現・向井千秋記念子ども科学館)がオープン。プラネタリウムの全天周映画上映開始。
    • 1993年 - 総合福祉センターがオープン。
    • 1994年 - 市制施行40周年記念式典が開催される。当市出身の向井千秋NASAスペースシャトルで日本人女性初となる宇宙飛行を達成。
    • 1998年 - 向井千秋が日本人初となる2度目の宇宙飛行を達成。
    • 2001年 - 県内2館目となる群馬県立館林美術館がオープン。「自然と人間」をテーマに「シロクマ」などの近現代美術作品を展示。
    • 2004年 - 市制施行50周年記念式典が盛大に挙行される。
    • 2005年 - 大西飛行場で撮影された映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が大ヒットを記録
    • 2007年 - 館林駅開業100周年。全国で観測史上8位となる最高気温40.3℃の猛暑日を記録。
    • 2009年 - 7月27日、F2スケール(風速約50m~69m)の竜巻が発生、21人が重軽傷を負う災害が発生。歴史の小径事業を開始(1.5キロにわたり歴史的建造物を移築し整備)。12月には館林駅の新駅舎が完成し東西通路が竣工。
    • 2012年 - 日清製粉株式会社が製粉の歴史を学べる博物館、製粉ミュージアムを創業の地である当市にオープン。
    • 2016年 - 板倉町との間に法定合併協議会を設置(2019年に3年程度の休止が決定。[16])。
  • 令和時代
    • 2019年 - 5月20日、市内にある沼とそこで暮らしてきた人びとが沼と共生することによって育まれた沼辺文化が「里沼(SATO-NUMA)-『祈り』『実り』『守り』の沼が磨き上げた館林の沼辺文化―」として、令和元年度文化庁「日本遺産」に認定される[17]



注釈

  1. ^ 館林市の観測史上最も低い最高気温は、1997年(平成9年)1月22日及び2023年(令和5年)1月25日に観測した0.6°Cである。

出典

  1. ^ 総務省統計局 経済センサスと統計地図(大都市圏の売上高)【1.関東大都市圏】[1]
  2. ^ 『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』駒村吉重、講談社 (2011/5/12) p22
  3. ^ a b 気象庁 | 館林観測所移設
  4. ^ 2010年夏 猛暑日、真夏日等の日数のランキング。他に埼玉県熊谷市でも同じ日数の猛暑日を観測した。
  5. ^ 2011年夏 猛暑日、真夏日等の日数のランキング
  6. ^ 2012年夏 猛暑日、真夏日等の日数のランキング。他に埼玉県熊谷市鳩山町兵庫県豊岡市でも同じ日数の猛暑日を観測した。
  7. ^ 2014年夏 猛暑日、真夏日等の日数のランキング
  8. ^ 2015年夏 猛暑日、真夏日等の日数のランキング
  9. ^ 「ズル林」の汚名返上なるか 群馬・館林アメダス移設へ:朝日新聞デジタル
  10. ^ 平年値(年・月ごとの値)”. 気象庁. 2024年2月閲覧。
  11. ^ 観測史上1~10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2024年2月閲覧。
  12. ^ 国勢調査 / 平成22年国勢調査 / 小地域集計 10群馬県”. 2018年3月14日閲覧。
  13. ^ a b 館林と立林およびその呼称について丸山瓦全、『館林郷土叢書. 第5輯』館林郷土史談館 編 (館林図書館, 1940)
  14. ^ 鎌倉大草紙13 上杉禅秀の乱・その4鎌倉大草現代語訳、芝蘭堂
  15. ^ 享保年間における館林騒動川島勘左衛門、『館林郷土叢書. 第4輯』館林郷土史談館 編 (館林図書館, 1940)
  16. ^ 群馬 館林市・板倉町合併協議会が休止を決定 住民サービスなどめぐり溝”. 産経新聞. 2019年2月2日閲覧。
  17. ^ 里沼(SATO-NUMA)-『祈り』『実り』『守り』の沼が磨き上げた館林の沼辺文化―」が令和元年度文化庁「日本遺産」に認定されました|館林市”. www.city.tatebayashi.gunma.jp. 2023年1月7日閲覧。
  18. ^ 新館林市議18人決まる”. 2018年11月18日閲覧。
  19. ^ 議員の紹介 勤続年数・年齢順 - 群馬県議会(令和5年4月30日現在)”. www.pref.gunma.jp. 群馬県. 2023年4月30日閲覧。
  20. ^ アゼリアモール”. アゼリアモール. 2018年8月25日閲覧。
  21. ^ アクロス館林”. 大和情報サービス. 2018年8月25日閲覧。
  22. ^ a b c d e f g h i 館林市の交流都市”. 館林市. 2016年5月17日閲覧。
  23. ^ a b c 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2016年5月17日閲覧。
  24. ^ 都市間交流事業について”. 姫路市. 2016年5月17日閲覧。
  25. ^ 榊原公ゆかり都市災害時相互応援に関する協定” (PDF). 姫路市. 2016年5月17日閲覧。
  26. ^ 資料編” (PDF). 館林市. 2016年5月17日閲覧。p.322
  27. ^ 資料編” (PDF). 館林市. 2016年5月17日閲覧。pp.321-322
  28. ^ 2020年6月6日(土) ダイヤ改正を実施! 東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線など【一般列車に関するお知らせ】』(PDF)(プレスリリース)東武鉄道株式会社、2020年5月11日https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/9c74c89717ec9b6e8fbba78fd2fdbf04_200511_2.pdf2023年1月29日閲覧 
  29. ^ a b c 鉄道ジャーナル』1987年4月号、通巻245号(第21巻第5号)、p.140。鉄道ジャーナル社
  30. ^ 谷村左右助勝武万延元年遣米使節団員名簿






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