小室良七
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小室 良七[1](こむろ りょうしち、幼名・彦次郎[2][3]、文久2年3月27日〈1862年4月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月2日[2])は、日本の政治家(群馬県邑楽郡会議員、館林町会議員)、商人(砂糖商[4][5])、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行各取締役[6][7][8]。上毛モスリン監査役[6][9]。族籍は群馬県平民[6][8]。
人物
群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれた[2]。小室良之助の長男[6][8]。幼名は彦次郎[2]。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる[2]。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた[2]。
善導寺住職・満成和尚に漢学や書を学んだ[2][3]。1883年12月、家督を相続し家業の砂糖商を継いだ[2]。1886年10月、襲名して良七と改めた[2]。
1889年、新町村制が実施され、4月に町会議員の選挙が行われた[2]。このとき良七は館林町会議員に選出される[2][3]。以来連続9回の当選を重ね、在職期間は40年に及んだ[2][3]。1899年、1911年には郡会議員に挙げられた[2][3]。
実業界にあっては1891年1月、第四十国立銀行取締役に挙げられてより、同行が八十一銀行、東海銀行等と組織を変更するも引き続きその職を離れず1927年に及んだ[2]。1897年には正田貞一郎らと館林実業談話会を設立した[3]。その他館林貯蓄銀行、上毛モスリン会社、日清製粉会社等の重役として活躍した[2][3]。住所は群馬県邑楽郡館林町[8]。
家族・親族
- 小室家
- 父・良之助[6][8]
- 母・はま( - 1878年、小室屋初代・儀三郎の娘)[10]
- 継母・とき(1859年 - ?、東京、岡本数馬の長女)[6]
- 弟・邦三郎(1892年 - ?、群馬、小室國蔵の養子となる)[6][8]
- 妹
- 妻・とも(1864年 - ?、埼玉、堀越庭七郎の六女)[6][8]
- 養子・忠太郎(1897年 - ?、柴田セイの兄)[6][8]、良七を襲名[10]
- 叔父・牧三郎(はまの弟、呉服商)[10]
- 従弟・貞次郎(翠雲)(牧三郎の長男、南画家)[10]
脚注
- ^ 『大日本紳士鑑』群馬県邑楽郡441頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『館林人物誌』180 - 181頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g 館林市史編さん委員会 編『館林市史別巻 館林歴史人物事典』館林市、2024年3月31日、245頁。
- ^ 『日本全国商工人名録 明治25年版』群馬県656頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月9日閲覧。
- ^ 『群馬県営業便覧 附・繁昌記』412頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第4版』こ20頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第6版』こ28頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第7版』こ34頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
- ^ 『官報 1914年02月03日』官報 第453号 36頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月25日閲覧。
- ^ a b c d e 館林市立図書館 編『郷土の芸術家たち』館林市立図書館〈館林双書〉、1985年3月30日、40頁。doi:10.11501/13229364。(
要登録)
参考文献
- 『日本全国商工人名録 明治25年版』日本全国商工人名録発行所、1892年。
- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 『群馬県営業便覧 附・繁昌記』全国営業便覧発行所、1904年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1914年02月03日』日本マイクロ写真、1914年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 群馬県邑楽郡館林町編『館林人物誌』群馬県邑楽郡館林町、1941年。
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