徳川光圀 徳川光圀の概要

徳川光圀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 13:50 UTC 版)

 
徳川 光圀
徳川光圀像(狩野常信画、徳川ミュージアム蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永5年6月10日1628年7月11日
死没 元禄13年12月6日1701年1月14日
改名 長丸、千代松、徳亮、光国、光圀
別名 子龍、観之(
日新斎、常山人、率然子、西山、梅里(
水戸光圀、水戸黄門
諡号 義公
神号 高譲味道根之命
墓所 瑞龍山久昌寺義公廟、常磐神社
官位 従五位上左衛門督従四位下右近衛権少将、従四位上・右近衛権中将従三位参議権中納言、贈従二位権大納言、贈従一位、贈正一位
主君 徳川家綱綱吉
常陸水戸藩
氏族 徳川氏水戸徳川家
父母 父:徳川頼房、母:谷久子(高瀬局)
養父:三木之次、養母:武佐
兄弟 松平頼重、亀丸、光圀頼元頼隆、頼利、頼雄、頼泰、頼以、房時、雑賀重義大姫
御簾中:近衛尋子(泰姫)
側室:弥智(親量院)
松平頼常
養子:綱方綱條、鍋姫
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概要

藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、「快風丸」建造による蝦夷地(後の北海道石狩国)の探検などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業に力を注いだ。さらに、徳川御三家の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。

同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、特に江戸時代後期から近代にかけて、白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が形成された。水戸黄門は講談歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(「水戸黄門」参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと考えられるが、実際の光圀は日光鎌倉金沢八景房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来熱海新編鎌倉志参照)を除くと、現在の関東地方の範囲から出た記録はない。

光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のため(「徳川御三家」参照)、頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらしたとの指摘がされている。

生涯

水戸黄門神社(義公生誕地)

幼年時代

寛永5年6月10日(西暦1628年7月11日)、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(現在の茨城県水戸市宮町)にある家臣・三木之次の屋敷で生まれる[2]

母は谷重則[注 2]の娘・久子(高瀬局)。『桃源遺事』によれば、頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。久子が懐妊した際に、父の頼房はまだ御簾中正室)を迎えていなかった。

後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、久子は奥付きの老女養心院の娘で、正式な側室ではなかった。母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、光圀の同母兄である松平頼重を懐妊したが、久子の母はこのことに憤慨してなだめられず、正式な側室であったお勝の方(円理院)も機嫌を損ねたため、頼房は堕胎を命じた。頼房乳母で奥付老女の之次の妻・武佐が頼房の准母英勝院と相談し、密かに江戸麹町の別荘で頼重を出産したという。光圀にも同様に堕胎の命令が出され、光圀は水戸の三木邸で生まれた。

頼重と光圀の間には次男・亀丸を含め5人の兄弟姉妹がいるが、彼らには堕胎命令の伝承はなく、光圀になぜ堕胎の命が出されたかは不明である。母に勢力がなかったためだろうかと、後年の光圀は語ったようである(『義公遺事』)。

『西山遺文』によれば、幼少時には三木夫妻の子(年齢的には孫)として育てられたと言われ、『玄桐筆記』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることをうかがわせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆記』などの伝記史料には、幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。

寛永9年(1632年)に水戸城に入城した。翌寛永10年(1633年11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川藩邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老中山信吉が水戸へ下向して行われており、3代将軍・徳川家光や英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で家光に拝謁している。

藩主相続まで

寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と改める。この年、伊藤友玄、小野言員、内藤高康の3人が傅役となる。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受ける[注 3]。だが、少年の頃の光国の言動はいわゆる不良であった。兄(頼重)を差し置いての世子決定が光国の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、派手な格好で不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いを行っており、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたりもした[4]。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている[5][注 4]。光国16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めた。光国18歳のとき、司馬遷の『史記伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる[4][6]

承応元年(1652年)、侍女弥智(玉井親次の娘)との間に男子(頼常)が生まれるが、母の弥智は妊娠中に家臣・伊藤友玄に預けられて出産し、生まれた子は翌年に高松に送られて兄・頼重の高松城内で育てられた。光国に対面したのは13歳の時であったが、このとき光国は親しみの様子を見せなかったという。承応3年(1654年)、前関白近衛信尋の娘・尋子(泰姫)と結婚する。

明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。

万治元年閏12月23日(西暦1659年2月14日)妻・泰姫が21歳で死去。以後は御簾中を娶らなかった。

藩主時代

寛文元年(1661年7月、父・頼房が水戸城で死去。葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬った。当時の風習であった家臣の殉死を禁じ、光国は自ら殉死の噂された家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と問いかけ殉死をやめさせたといわれている。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後であるので、『義公行実』では殉死の禁止の初例としている。ただし、同じ頃、紀州藩彦根藩会津藩でも殉死を禁ずる旨の記録があるので、水戸藩が初例かどうかはわからない。

8月19日、幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となる。『桃源遺事』では、この前日、兄・頼重と弟たちに「兄の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と言ったという。兄弟は光国を説得したが、光国の意志は固く、今度は弟たちが頼重を説得し、頼重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した、とされている。しかし実際には、綱方が光国の養子となったのは、寛文3年(1663年12月である。翌寛文4年(1664年2月、光国の実子・頼常が頼重の養子となる。さらに寛文5年には頼重の次男・采女(綱條)が水戸家に移り、綱方死後の寛文11年(1671年)に光国の養子となった。また、弟・頼元那珂郡2万石(額田藩)を、頼隆久慈郡2万石(保内藩)を分与する。

藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じた。頼房時代に造営された水戸下町は元々は湿地帯であったため井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由であった。望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩樋でつなぐ笠原水道を着工。実際の敷設は永田勘衛門とその息子が担当した。約1年半で完成した。笠原水道は改修を重ね、明治時代に近代的な水道が整備されるまで利用された。

寛文3年(1663年)、領内の寺社改革に乗り出し、村単位に「開基帳」の作成を命じた。寛文5年(1665年)、寺社奉行2人を任じ、翌年寺社の破却・移転などを断行した。開基帳には2,377寺が記されているが、この年処分されたのは1,098寺で、46%に及ぶ。うち破却は713寺。主な理由は不行跡であった。神社については、社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させた。また、藩士の墓地として、特定の寺院宗派に属さない共有墓地を、水戸上町・下町それぞれに設けた(現在の常磐共有墓地酒門共有墓地)。一方で、由緒正しい寺院長勝寺 (潮来市)や願入寺(大洗町)などについては支援・保護した。神社については、静神社那珂市)、吉田神社(水戸市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、神道を学ばせている。

寛文5年(1665年)、の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派であった。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようであるが、おそらく費用の面から実現しなかった。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残った。朱舜水は、17年後の天和2年(1682年)死去し、瑞龍山に葬られた。

延宝元年(1673年)、5回目の就藩からの江戸帰府に際し、通常の経路でなく、上総から船で鎌倉に渡り江戸へという経路をたどった。鎌倉では英勝寺を拠点として名所・名跡を訪ね、この旅の記録を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏めた。貞享2年(1685年)、『鎌倉日記』をもとに河井恒久らにより、地誌『新編鎌倉志』が編纂された。創作の『水戸黄門』では日本全国を諸国漫遊しているが、藩主は江戸になければならず、領地を視察や移動中に寄り道することはあったが、光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺英勝寺)に数度足を運んだ程度である[1][6]

延宝5年(1677年)、生母を弔うため、久昌寺を建立した[7]

延宝7年(1679年)頃、諱を光圀に改める(光圀52歳)[注 5]

貞享から元禄の初めにかけて、建造した巨船「快風丸」を使い、三度にわたる蝦夷地探検を命じる。二度目までは松前までの航海であったが、元禄元年(1688年)出航の3度目は松前から北上して石狩まで到達した。などと引き換えに、塩一万本、ラッコトドの皮などを積んで帰還した。この航海により、水戸藩は幕末に至るまで蝦夷地に強い関心を持った。しかし、この巨船での航海は、光圀が藩主であったから幕府も黙認して実現したようで、これ以降行われず、光圀の死から3年目に快風丸も解体された。

隠居時代

元禄3年(1690年10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継いだ。翌15日権中納言に任じられた。11月29日に江戸を立ち、12月4日に水戸へ到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年5月久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲した。佐々宗淳ら60余人が伺候した。

那須国造碑のある笠石神社と日本考古学発祥の地碑

光圀は、元禄5年(1692年)に古墳発掘調査を行わせた。事の始まりは、下野国(現在の栃木県)で水戸藩領だった那須郡小口村(現・那珂川町)の庄屋・大金重貞が延宝4年(1676年)、旅僧の円順から「湯津上村に古い碑がある」と聞いて現地を訪れ、この那須国造碑に刻まれた文章を調べて『那須記』という本にまとめ、光圀に献上した[8](湯津上村は藩領でなく旗本知行地であった)。光圀は、碑を那須国造の墓ではないかと考え、貞享4年(1687年)に佐々宗淳に調査を命じた[8]。碑の下からは何も出土しなかった[8]が、佐々は碑を修繕して鞘堂を建てた。佐々は元禄5年(1692年)、碑の近くにあり、那須国造のものと伝承される侍塚(上侍塚古墳下侍塚古墳)を発掘して甲冑、石釧、管玉などを見つけたが、埋葬者を明記した墓誌などはなく、光圀は出土品をの箱に収めて埋め戻させた[8]。この折の記録は、『湯津神村車塚御修理』と、水戸藩が保管していた図面をもとに明治9年(1876年)に栗田寛が記した『葬礼私考』に残されている[8]。日本初の学術的着想による発掘といわれるこの調査は、翌元禄6年(1693年4月に終了し、6月には光圀が湯津上村を訪れ、那須国造碑と両古墳を視察した。

また、古墳の調査を終えた同年4月、佐々を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川に派遣し、正成を讃える墓を建造させた(湊川神社[注 6])。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。このほか同年、藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて『救民妙薬』を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。

元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、「八幡改め」または「八幡潰し」と呼ばれる神社整理を行う。神仏習合神である八幡社を整理し、神仏分離を図ったものである[注 7]。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。

元禄7年(1694年)3月、5代将軍・徳川綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後、突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。翌元禄8年(1695年)1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。

元禄9年(1696年12月23日、亡妻・泰姫の命日に出家する。寺社改革を断行した光圀であるが、久昌寺に招いた僧・日乗らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる。

元禄13年12月6日(1701年1月14日)に死去した。享年74(満72歳没)。72歳頃から食欲不振におちいっていたため、死因は胃癌食道癌が推定されている。


注釈

  1. ^ 水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)を意味する。一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指すが、中納言・権中納言に任命された水戸藩主は頼房、光圀、綱條治保斉脩斉昭慶篤が該当し、水戸黄門は7人いたということになる[1]
  2. ^ 重則は、はじめ下野国佐野城城主・佐野宗綱に仕え、後に鳥居忠政の家臣となり、寛永7年(1630年)、山形で没した[3]
  3. ^ 義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動改易される要因になるも、有能な人物として知られている。
  4. ^ 寛永17年(1640年)光圀数え13歳の逸話[5]
  5. ^ a b 天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。
  6. ^ 光圀が楠木正成の墓を建立した場所は、明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像と頌徳碑が建てられている。
  7. ^ もともとは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて水戸藩の領域に進出してきた佐竹氏(源氏)が地域の支配のために石清水八幡宮を勧請して地域の祭神を置き換え、更に室町時代に上杉氏(藤原氏)から佐竹義人が佐竹氏を相続して内紛が発生した際に鶴岡八幡宮を勧請して石清水系の神社を崇敬する反義人派に対抗しようとした事情があり、光圀の神仏分離では神仏習合色の強い八幡信仰が抑圧されると共に水戸藩領域を長く支配した佐竹氏支配の残滓を排除する目的もあったと指摘されている[9]
  8. ^ 寛文2年(1662年)、幕府は林羅山の子林鵞峰に『本朝編年録』の編纂継続を命じ、2年後には編纂所として国史館が建てられ、書名も『本朝通鑑』となった。この寛文4年(1664年)11月、光圀は鵞峰を小石川邸に招いて国史について問答している(『国史館日録』)。『本朝通鑑』は寛文10年(1670年)完成するが、こうした幕府・林家の修史事業も光圀に影響を与えた。
  9. ^ そのため「皮厚さ一の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという話が伝わるが、これは原典は伊達政宗の同内容の逸話であるとされている[11]
  10. ^ 旧暦のため実際には1701年1月14日。
  11. ^ 森鷗外は『寿阿弥の手紙』十九章において、お島が光圀の藩主時代(1690年以前)にその胤を宿したと推測している[19]

出典

  1. ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 6』講談社、2004年。 
  2. ^ 鈴木 2006, p. 1.
  3. ^ 鈴木 2006, p. 21.
  4. ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 5』講談社、2004年。 
  5. ^ a b 『玄桐筆記』。
  6. ^ a b 史実の「水戸黄門」は、若いころグレにグレていた!”. 現代ビジネス. 講談社. 2016年10月9日閲覧。
  7. ^ 久昌寺”. 常陸太田市 (2021年4月6日). 2023年3月6日閲覧。
  8. ^ a b c d e 【はじまりを歩く】発掘調査(栃木県)光圀が命じた「国造」の墓探し『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2021年10月9日6-7面(2021年11月5日閲覧)
  9. ^ 堤禎子「佐竹氏と八幡信仰」『茨城県立歴史館報』28号、2001年。佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』(戒光祥出版、2021年)P192-227.所収
  10. ^ 室町時代に食された「経帯麺」について”. 新横浜ラーメン博物館. 2019年1月13日閲覧。
  11. ^ 小菅桂子『水戸黄門の食卓―元禄の食事情』中央公論社〈中公新書〉、1992年1月。ISBN 978-4121010599[要ページ番号]
  12. ^ 小菅桂子『にっぽんラーメン物語』改訂版、講談社〈講談社+α文庫〉、1998年。[要ページ番号]
  13. ^ 永井義男『本当はブラックな江戸時代』辰巳出版、2016年、91-93頁。 
  14. ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、92頁。 
  15. ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、95-96頁。 
  16. ^ 仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』草思社、2019年。 
  17. ^ 水戸光圀公之肖像及書 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、2023年8月5日閲覧。
  18. ^ 「大日本史編纂経費「三分の一説」等の根拠は?-通説化する不確かな伝聞-」『水戸史学の各論的研究』(但野正弘、慧文社、2006年)[要ページ番号]
  19. ^ 森鷗外『壽阿彌の手紙』 (青空文庫)
  20. ^ 大河ドラマ『葵~徳川三代~』”. NHKアーカイブス. 2023年2月9日閲覧。






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