徳川光圀
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系譜
御簾中の泰姫には結婚5年ほどで先立たれており、また終生正式には側室を持たなかった(頼常を生んだ侍女・弥智は出産後、家臣望月信尚と結婚した。夫の死後、頼常の願いにより高松に移り住む)。真偽のほどは不明であるが、いくつかの落胤説がある。領内額田村の豪農鈴木家に嫁いだ「万妃」。磯原村の郷士野口家(野口雨情の祖先)に下げ渡した侍女の子。菓子商真志屋に嫁いだお島の子[注 11]。また成田山新勝寺の中興一世照範も光圀の落胤との説がある。
また、私的な養女として系図には記載されないが、浄土真宗願入寺15世如高の娘を養女としたことが知られている。願入寺門主は親鸞の長男・善鸞の子・如信の子孫であるが、当時水戸藩領内の久米村で零落していた。親鸞末女の子孫である本願寺の隆盛に対し、嫡系といえる願入寺の零落に心を痛め、娘を養女とし城内に入れて鶴子姫と称し、東本願寺第14代門主・琢如の次男・如晴(瑛兼)を婿に迎え、寺領300石を与えて願入寺を再興させた。光圀との親交は厚く、遺品や多数の書状が残っている。
伝記
多数の学者が側近にいたことにより、光圀の伝記・言行録は同時代人に比べて多い。主なものは以下のとおり。
- 『義公行実』 - 元禄14年(1701年)。中村篁溪・栗山潜鋒・酒泉竹軒・安積澹泊編。藩主綱條の命で編纂された漢文体の伝記。のち享保8年(1723年)、光圀の文集『常山文集』が出版される際、巻末に付録として刊行。安積澹泊により全般的改訂がされた。
- 『桃源遺事』 - 元禄14年(1701年)。三木之幹・宮田清貞・牧野和高編。和文体による言行録。別名『西山遺事』。和文のため最も広く流布した。
- 『玄桐筆記』 - 元禄14年(1701年)。井上玄桐編。侍医であった玄桐が書いた光圀の言行録。光圀の死後故郷の京都に帰り、水戸の安積澹泊に向けて書き送ったもの。
- 『義公遺事』 - 成立年不明。中村篁溪(1647年 - 1712年)編。光圀に近侍していた時期に見聞した光圀の言行・逸話や、光圀の命を受けて活動した体験などを記す。
- 『西山遺聞』 - 天明6年(1786年)。立原翠軒編。光圀の逸話で、諸書に掲載されていないものを集めたもの。
著作等
漢文集『常山文集』、歌集『常山詠草』、随筆『西山随筆』などがあり、徳川圀順編『水戸義公全集』(1970年、水府明徳会)に収録されている。
注釈
- ^ 「水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)を意味する。一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指すが、中納言・権中納言に任命された水戸藩主は頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤が該当し、水戸黄門は7人いたということになる[1]。
- ^ 重則は、はじめ下野国佐野城城主・佐野宗綱に仕え、後に鳥居忠政の家臣となり、寛永7年(1630年)、山形で没した[3]
- ^ 義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になるも、有能な人物として知られている。
- ^ 寛永17年(1640年)光圀数え13歳の逸話[5]。
- ^ a b 天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。
- ^ 光圀が楠木正成の墓を建立した場所は、明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像と頌徳碑が建てられている。
- ^ もともとは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて水戸藩の領域に進出してきた佐竹氏(源氏)が地域の支配のために石清水八幡宮を勧請して地域の祭神を置き換え、更に室町時代に上杉氏(藤原氏)から佐竹義人が佐竹氏を相続して内紛が発生した際に鶴岡八幡宮を勧請して石清水系の神社を崇敬する反義人派に対抗しようとした事情があり、光圀の神仏分離では神仏習合色の強い八幡信仰が抑圧されると共に水戸藩領域を長く支配した佐竹氏支配の残滓を排除する目的もあったと指摘されている[9]。
- ^ 寛文2年(1662年)、幕府は林羅山の子林鵞峰に『本朝編年録』の編纂継続を命じ、2年後には編纂所として国史館が建てられ、書名も『本朝通鑑』となった。この寛文4年(1664年)11月、光圀は鵞峰を小石川邸に招いて国史について問答している(『国史館日録』)。『本朝通鑑』は寛文10年(1670年)完成するが、こうした幕府・林家の修史事業も光圀に影響を与えた。
- ^ そのため「皮厚さ一寸の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという話が伝わるが、これは原典は伊達政宗の同内容の逸話であるとされている[11]。
- ^ 旧暦のため実際には1701年1月14日。
- ^ 森鷗外は『寿阿弥の手紙』十九章において、お島が光圀の藩主時代(1690年以前)にその胤を宿したと推測している[19]。
出典
- ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 6』講談社、2004年。
- ^ 鈴木 2006, p. 1.
- ^ 鈴木 2006, p. 21.
- ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 5』講談社、2004年。
- ^ a b 『玄桐筆記』。
- ^ a b “史実の「水戸黄門」は、若いころグレにグレていた!”. 現代ビジネス. 講談社. 2016年10月9日閲覧。
- ^ “久昌寺”. 常陸太田市 (2021年4月6日). 2023年3月6日閲覧。
- ^ a b c d e 【はじまりを歩く】発掘調査(栃木県)光圀が命じた「国造」の墓探し『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2021年10月9日6-7面(2021年11月5日閲覧)
- ^ 堤禎子「佐竹氏と八幡信仰」『茨城県立歴史館報』28号、2001年。佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』(戒光祥出版、2021年)P192-227.所収
- ^ “室町時代に食された「経帯麺」について”. 新横浜ラーメン博物館. 2019年1月13日閲覧。
- ^ 小菅桂子『水戸黄門の食卓―元禄の食事情』中央公論社〈中公新書〉、1992年1月。ISBN 978-4121010599[要ページ番号]
- ^ 小菅桂子『にっぽんラーメン物語』改訂版、講談社〈講談社+α文庫〉、1998年。[要ページ番号]
- ^ 永井義男『本当はブラックな江戸時代』辰巳出版、2016年、91-93頁。
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、92頁。
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、95-96頁。
- ^ 仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』草思社、2019年。
- ^ 水戸光圀公之肖像及書 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、2023年8月5日閲覧。
- ^ 「大日本史編纂経費「三分の一説」等の根拠は?-通説化する不確かな伝聞-」『水戸史学の各論的研究』(但野正弘、慧文社、2006年)[要ページ番号]
- ^ 森鷗外『壽阿彌の手紙』 (青空文庫)
- ^ “大河ドラマ『葵~徳川三代~』”. NHKアーカイブス. 2023年2月9日閲覧。
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