徳川光圀 光圀の人物像

徳川光圀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 13:50 UTC 版)

光圀の人物像

茨城県水戸市千波公園にある徳川光圀像
  • 19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について「朝夕文武の道に励む向学の青年」と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。
  • 光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
    • 日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、餃子チーズ牛乳酒、黒豆納豆がある。ラーメンも光圀が最初と言われてきたが、光圀が食した時期より200年以上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンのルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが平成29年(2017年)に判明した[10]肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は将軍・綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉豚肉羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてそのを綱吉に献上したという俗説も生まれた。
    • オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲したりするなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参インコを取り寄せ、育てている。蝦夷地探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けている。
    • 鮭も好物であり、カマとハラスと皮[注 9]を特に好んだ。
    • 朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニララッキョウネギニンニクハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録も残っている。[12]
  • 当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。
  • 『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えた。
  • 父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事をしなかった。
  • 綱吉期に大老堀田正俊稲葉正休に刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された。光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に対して強い不信を抱いたという。
  • 『玄桐筆記』によれば、光圀が若い頃、知り合いの武士と出かけて帰りが遅くなった。歩き疲れて浅草あたりの仏堂で一休みしていると、連れの武士が「この堂の床下に非人どもが寝ているようだ。引っ張り出して、刀の試し斬りをしよう」と言った。光圀が「つまらないことを言うものではない。罪のない者を斬ることなどできない。それに、非人の中にも手強い者がいるかもしれない。どのような反撃を受けるか分からない。無用なことだ」と言うと、武士は光圀を「臆病風に吹かれたのか」と罵倒した。やむなく光圀は床下に潜り込み、非人を捕まえて引きずり出そうとした。非人は「自分も命が惜しいのです。無慈悲なことはやめてください」と哀願した。光圀は「自分も無慈悲な振る舞いだとは思うが、仕方がない。前世の因縁だと思って諦めてくれ」と言い、非人を引き出して斬り捨てた。光圀は連れの武士に「さてさて、むごいことをしてしまいました。あなたが、そんな人間とは知らずにこれまで付き合っていたことが悔やまれます。今後は、もう、お目にかかることもないでしょう」と言い、その日を境に絶交したという[13]
  • 『盛衰記』によれば、「御手討被遊候迚壱人御貰被遊」(自分で斬ってみようと死罪人を一人頂戴し試し斬りをした)が、光圀の手が返って刀の峰(刀の背の部分)で斬ったため罪人は助かり、光圀は再度斬ろうとせず罪人を放免した。当時は大名が幕府から罪人を貰い受け、刀の切れ味を試すために生きたまま試し斬りにする風習があったが、光圀は最初から罪人の命を助けるつもりで貰い受けたようだという[14]
  • 『盛衰記』によれば、水戸の領内で親を殺した男がいた。牢屋に入れられた男は「殺したのは自分の親だ。自分の考えに反対したので殺しただけだ。それを御上が問題にするのはおかしい。自分は年貢もきちんと納め、御上の法にも違反していない。いったい何の罪で牢に入らなければならないのか」と言った。それを聞いた光圀は「五常の道(仁義礼智信)さえ知らない(倫理観を持たない)者を殺すのは藩主の誤りである」と考え、男に論語の講釈を聞かせた。三年目に男は親殺しの罪の重さを知り、自ら死刑にするよう願い出た。光圀は男が自分の非を悔い改めたと聞き、初めて処刑を命じたという[15]
  • 『桃源遺事』によれば、隠居した光圀は松前藩から献上され江戸屋敷で飼育していたタンチョウヅルを西山荘(現在の茨城県常陸太田市)に放したが、この鶴を長作という男が殺してしまった。長作は捕らえられ、激怒した光圀は「自ら成敗する」と言って長作を牢から引き出した。光圀は「憎い奴め。憎んでも憎み足らぬ」と言って長作を斬り捨てようとしたが、「この者を殺しても鶴は生き返らぬ。禽獣のために人を殺すわけにはいかない。許してやれ」と言い長作を追放した。さらに光圀は「このような者が無一文で放り出されれば、またどこかで悪事を働くしかないだろう。どこかに落ち着くまで銭と米飯を与えてやれ」と命じた。作家の仁科邦男は「生類憐みの令徳川綱吉は犬殺しの犯人を極刑に処したが、光圀は愛する鶴を殺されても犯人を助命したばかりでなく、犯人の更生に手を貸した。光圀の方がよほど生類を憐れみ、人命を尊重する名君だった」と評している[16]

注釈

  1. ^ 水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)を意味する。一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指すが、中納言・権中納言に任命された水戸藩主は頼房、光圀、綱條治保斉脩斉昭慶篤が該当し、水戸黄門は7人いたということになる[1]
  2. ^ 重則は、はじめ下野国佐野城城主・佐野宗綱に仕え、後に鳥居忠政の家臣となり、寛永7年(1630年)、山形で没した[3]
  3. ^ 義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動改易される要因になるも、有能な人物として知られている。
  4. ^ 寛永17年(1640年)光圀数え13歳の逸話[5]
  5. ^ a b 天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。
  6. ^ 光圀が楠木正成の墓を建立した場所は、明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像と頌徳碑が建てられている。
  7. ^ もともとは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて水戸藩の領域に進出してきた佐竹氏(源氏)が地域の支配のために石清水八幡宮を勧請して地域の祭神を置き換え、更に室町時代に上杉氏(藤原氏)から佐竹義人が佐竹氏を相続して内紛が発生した際に鶴岡八幡宮を勧請して石清水系の神社を崇敬する反義人派に対抗しようとした事情があり、光圀の神仏分離では神仏習合色の強い八幡信仰が抑圧されると共に水戸藩領域を長く支配した佐竹氏支配の残滓を排除する目的もあったと指摘されている[9]
  8. ^ 寛文2年(1662年)、幕府は林羅山の子林鵞峰に『本朝編年録』の編纂継続を命じ、2年後には編纂所として国史館が建てられ、書名も『本朝通鑑』となった。この寛文4年(1664年)11月、光圀は鵞峰を小石川邸に招いて国史について問答している(『国史館日録』)。『本朝通鑑』は寛文10年(1670年)完成するが、こうした幕府・林家の修史事業も光圀に影響を与えた。
  9. ^ そのため「皮厚さ一の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという話が伝わるが、これは原典は伊達政宗の同内容の逸話であるとされている[11]
  10. ^ 旧暦のため実際には1701年1月14日。
  11. ^ 森鷗外は『寿阿弥の手紙』十九章において、お島が光圀の藩主時代(1690年以前)にその胤を宿したと推測している[19]

出典

  1. ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 6』講談社、2004年。 
  2. ^ 鈴木 2006, p. 1.
  3. ^ 鈴木 2006, p. 21.
  4. ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 5』講談社、2004年。 
  5. ^ a b 『玄桐筆記』。
  6. ^ a b 史実の「水戸黄門」は、若いころグレにグレていた!”. 現代ビジネス. 講談社. 2016年10月9日閲覧。
  7. ^ 久昌寺”. 常陸太田市 (2021年4月6日). 2023年3月6日閲覧。
  8. ^ a b c d e 【はじまりを歩く】発掘調査(栃木県)光圀が命じた「国造」の墓探し『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2021年10月9日6-7面(2021年11月5日閲覧)
  9. ^ 堤禎子「佐竹氏と八幡信仰」『茨城県立歴史館報』28号、2001年。佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』(戒光祥出版、2021年)P192-227.所収
  10. ^ 室町時代に食された「経帯麺」について”. 新横浜ラーメン博物館. 2019年1月13日閲覧。
  11. ^ 小菅桂子『水戸黄門の食卓―元禄の食事情』中央公論社〈中公新書〉、1992年1月。ISBN 978-4121010599[要ページ番号]
  12. ^ 小菅桂子『にっぽんラーメン物語』改訂版、講談社〈講談社+α文庫〉、1998年。[要ページ番号]
  13. ^ 永井義男『本当はブラックな江戸時代』辰巳出版、2016年、91-93頁。 
  14. ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、92頁。 
  15. ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、95-96頁。 
  16. ^ 仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』草思社、2019年。 
  17. ^ 水戸光圀公之肖像及書 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、2023年8月5日閲覧。
  18. ^ 「大日本史編纂経費「三分の一説」等の根拠は?-通説化する不確かな伝聞-」『水戸史学の各論的研究』(但野正弘、慧文社、2006年)[要ページ番号]
  19. ^ 森鷗外『壽阿彌の手紙』 (青空文庫)
  20. ^ 大河ドラマ『葵~徳川三代~』”. NHKアーカイブス. 2023年2月9日閲覧。






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