徳川光圀による発掘調査とは? わかりやすく解説

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徳川光圀による発掘調査

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 04:02 UTC 版)

侍塚古墳」の記事における「徳川光圀による発掘調査」の解説

上侍塚・下侍塚の2基の古墳は、江戸時代徳川光圀の命で発掘調査が行われたことで知られる天和3年1683年)、光圀当時水戸であった那須郡武茂郷(むものさと、現在の栃木県那珂川町馬頭)を訪れた際、同地庄屋であった大金重貞から同人著書那須記』を献上された。光圀はその『那須記』に記され古碑那須国造碑)に興味持ち碑文登場する那須直韋提(なすのあたいいで)の墓所確認すべく、碑の近くにある上侍塚古墳下侍塚古墳発掘調査企てたのである。なお、那須国造碑下侍塚古墳の北500メートルにある笠石神社神体となり、国宝指定されている。 光圀の命による発掘調査元禄5年1692年)に実施された。このときの調査所見大金重貞が『湯津上村車塚修理』という題名記録残している。上侍塚の後方中央を5尺(約1.5メートル)ほど掘り下げると、石釧鉄鏃管玉などが出土したとあり、これらの下には「へな土」(泥土)を塗り、その中には「墨・漆の練り土」「少々」があったという。これは、粘土郭の中に木棺収めた埋葬施設とみられる下侍塚についても同様に後方中央を5尺ほど掘り下げる遺物出土したというが、『湯津上村車塚修理』は下侍塚の埋葬施設について言及していない。両古墳からの出土品以下のとおりであった。 上侍塚 - 銅鏡捩文鏡か)、石釧管玉鉄鏃鉾身、鎧破片鉄刀破片高坏 下侍塚 - 銅鏡斜縁神獣鏡か)、鉄斧大刀柄頭鉄刀破片、鎧破片高坏、壺 なお、これら出土品は、絵師命じて記録図を描かせた後、松材の箱に納めてもとどおり埋め戻したという。また、光圀墳丘保護のため、植樹させた。こうした一連の光圀による活動は、今日文化財調査文化財保護通じものといわれている。 下侍塚については、1975年周濠主とする調査実施され葺石確認されたほか、土師器壺などが出土している。 2021年1月19日下野新聞報道によると、栃木県は、上述徳川光圀による日本考古学史上初の学術調査の結果再確認すべく、上侍塚・下侍塚の再発掘計画している。

※この「徳川光圀による発掘調査」の解説は、「侍塚古墳」の解説の一部です。
「徳川光圀による発掘調査」を含む「侍塚古墳」の記事については、「侍塚古墳」の概要を参照ください。

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