徳川光圀による発掘調査
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上侍塚・下侍塚の2基の古墳は、江戸時代に徳川光圀の命で発掘調査が行われたことで知られる。天和3年(1683年)、光圀は当時水戸領であった那須郡武茂郷(むものさと、現在の栃木県那珂川町馬頭)を訪れた際、同地の庄屋であった大金重貞から同人の著書『那須記』を献上された。光圀はその『那須記』に記された古碑(那須国造碑)に興味を持ち、碑文に登場する那須直韋提(なすのあたいいで)の墓所を確認すべく、碑の近くにある上侍塚古墳・下侍塚古墳の発掘調査を企てたものである。なお、那須国造碑は下侍塚古墳の北500メートルにある笠石神社の神体となり、国宝に指定されている。 光圀の命による発掘調査は元禄5年(1692年)に実施された。このときの調査の所見は大金重貞が『湯津上村車塚御修理』という題名で記録に残している。上侍塚の後方部中央を5尺(約1.5メートル)ほど掘り下げると、石釧、鉄鏃、管玉などが出土したとあり、これらの下には「へな土」(泥土)を塗り、その中には「墨・漆の練り土」「朱少々」があったという。これは、粘土郭の中に木棺を収めた埋葬施設とみられる。下侍塚についても同様に後方部中央を5尺ほど掘り下げると遺物が出土したというが、『湯津上村車塚御修理』は下侍塚の埋葬施設については言及していない。両古墳からの出土品は以下のとおりであった。 上侍塚 - 銅鏡(捩文鏡か)、石釧、管玉、鉄鏃、鉄鉾身、鎧破片、鉄刀身破片、高坏 下侍塚 - 銅鏡(斜縁神獣鏡か)、鉄斧、大刀柄頭、鉄刀身破片、鎧破片、高坏、壺 なお、これら出土品は、絵師に命じて記録図を描かせた後、松材の箱に納めて、もとどおり埋め戻したという。また、光圀は墳丘保護のため、松を植樹させた。こうした一連の光圀による活動は、今日の文化財調査・文化財保護に通じるものといわれている。 下侍塚については、1975年に周濠を主とする調査が実施され、葺石が確認されたほか、土師器壺などが出土している。 2021年1月19日の下野新聞の報道によると、栃木県は、上述の徳川光圀による日本考古学史上初の学術調査の結果を再確認すべく、上侍塚・下侍塚の再発掘を計画している。
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