徳川光圀 光圀とその後の水戸藩

徳川光圀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 13:50 UTC 版)

光圀とその後の水戸藩

『水戸光圀公之肖像』(京都大学附属図書館蔵)[17]

水戸藩は『大日本史』の編纂に多大な費用を掛けた。一説に藩の収入の3分の1近くをこの事業に注ぎ込んだといわれている(3分の1説の他、8万石説、3.5分の1説、3万石・5万石・7万石説、10万石説などがあるが、いずれも根拠は明確でない)[18]

水戸藩の財政は初代の父・頼房の藩主時代から苦しく、光圀の藩主時代後期には財政難が表面化していた。光圀は藩士の俸禄の借り上げ(給料削減)を行っているが、大きな効果は上がっていない。光圀の養子・綱條も財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。その後も水戸藩にとって財政の立て直しは重要課題であり続け、様々な改革と幕府からの借金を繰り返した。一方で『大日本史』の編纂は光圀の死後も継続され、豊かとはいえない慢性的な逼迫財政をさらに苦しめたとされる。

また光圀は他の御三家に対抗するため、当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め、表高が28万石だった水戸藩を見かけ上36万9千石にした。この石高が次代の綱條の代に幕府に認められることとなり、これが上記『大日本史』編纂事業とあいまって水戸藩困窮の要因となった。

光圀の学芸振興は「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担が重くなり、農民の逃散が絶えなかった。

一方、光圀が彰考館の学者たちを優遇したことにより、水戸藩の士や領民から、学問によって立身・出世を目指す者を他藩より多く出すことになる。低い身分の出身であっても、彰考館の総裁となれば、200石から300石の禄高とそれに見合う役職がつけられた。光圀時代には他藩からの招聘者がほとんどを占めた。また、那珂湊の船手方という低い身分から、14歳の時、光圀に認められ、後に総裁になった打越樸斎がいる。他藩から招聘者のなくなった後期の彰考館員、後期水戸学の学者は、ほとんどが下級武士や武士以外の身分から出た者たちであり、藤田幽谷会沢正志斎は彰考館を経て立身した典型的な例である。彼ら後期水戸学者にとって光圀は絶大な人気があり、彼らの著作を通じて、光圀の勤皇思想が実態より大きく広められたとの見方もある。

水戸徳川家参勤交代を行わず江戸に定府しており、帰国は申し出によるものであった(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は俗に「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる)。財政悪化もあり、中・後期の藩主はほとんど帰国しなかった。光圀は藩主時代計11回帰国しており、歴代藩主の中では最多である。また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸に出るまでの5年と、隠居してから没するまでの10年を水戸藩領内で過ごした。そのため、水戸藩領内における関連した史跡は後の藩主に比べると格段に多い。


注釈

  1. ^ 水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)を意味する。一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指すが、中納言・権中納言に任命された水戸藩主は頼房、光圀、綱條治保斉脩斉昭慶篤が該当し、水戸黄門は7人いたということになる[1]
  2. ^ 重則は、はじめ下野国佐野城城主・佐野宗綱に仕え、後に鳥居忠政の家臣となり、寛永7年(1630年)、山形で没した[3]
  3. ^ 義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動改易される要因になるも、有能な人物として知られている。
  4. ^ 寛永17年(1640年)光圀数え13歳の逸話[5]
  5. ^ a b 天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。
  6. ^ 光圀が楠木正成の墓を建立した場所は、明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像と頌徳碑が建てられている。
  7. ^ もともとは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて水戸藩の領域に進出してきた佐竹氏(源氏)が地域の支配のために石清水八幡宮を勧請して地域の祭神を置き換え、更に室町時代に上杉氏(藤原氏)から佐竹義人が佐竹氏を相続して内紛が発生した際に鶴岡八幡宮を勧請して石清水系の神社を崇敬する反義人派に対抗しようとした事情があり、光圀の神仏分離では神仏習合色の強い八幡信仰が抑圧されると共に水戸藩領域を長く支配した佐竹氏支配の残滓を排除する目的もあったと指摘されている[9]
  8. ^ 寛文2年(1662年)、幕府は林羅山の子林鵞峰に『本朝編年録』の編纂継続を命じ、2年後には編纂所として国史館が建てられ、書名も『本朝通鑑』となった。この寛文4年(1664年)11月、光圀は鵞峰を小石川邸に招いて国史について問答している(『国史館日録』)。『本朝通鑑』は寛文10年(1670年)完成するが、こうした幕府・林家の修史事業も光圀に影響を与えた。
  9. ^ そのため「皮厚さ一の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという話が伝わるが、これは原典は伊達政宗の同内容の逸話であるとされている[11]
  10. ^ 旧暦のため実際には1701年1月14日。
  11. ^ 森鷗外は『寿阿弥の手紙』十九章において、お島が光圀の藩主時代(1690年以前)にその胤を宿したと推測している[19]

出典

  1. ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 6』講談社、2004年。 
  2. ^ 鈴木 2006, p. 1.
  3. ^ 鈴木 2006, p. 21.
  4. ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 5』講談社、2004年。 
  5. ^ a b 『玄桐筆記』。
  6. ^ a b 史実の「水戸黄門」は、若いころグレにグレていた!”. 現代ビジネス. 講談社. 2016年10月9日閲覧。
  7. ^ 久昌寺”. 常陸太田市 (2021年4月6日). 2023年3月6日閲覧。
  8. ^ a b c d e 【はじまりを歩く】発掘調査(栃木県)光圀が命じた「国造」の墓探し『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2021年10月9日6-7面(2021年11月5日閲覧)
  9. ^ 堤禎子「佐竹氏と八幡信仰」『茨城県立歴史館報』28号、2001年。佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』(戒光祥出版、2021年)P192-227.所収
  10. ^ 室町時代に食された「経帯麺」について”. 新横浜ラーメン博物館. 2019年1月13日閲覧。
  11. ^ 小菅桂子『水戸黄門の食卓―元禄の食事情』中央公論社〈中公新書〉、1992年1月。ISBN 978-4121010599[要ページ番号]
  12. ^ 小菅桂子『にっぽんラーメン物語』改訂版、講談社〈講談社+α文庫〉、1998年。[要ページ番号]
  13. ^ 永井義男『本当はブラックな江戸時代』辰巳出版、2016年、91-93頁。 
  14. ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、92頁。 
  15. ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、95-96頁。 
  16. ^ 仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』草思社、2019年。 
  17. ^ 水戸光圀公之肖像及書 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、2023年8月5日閲覧。
  18. ^ 「大日本史編纂経費「三分の一説」等の根拠は?-通説化する不確かな伝聞-」『水戸史学の各論的研究』(但野正弘、慧文社、2006年)[要ページ番号]
  19. ^ 森鷗外『壽阿彌の手紙』 (青空文庫)
  20. ^ 大河ドラマ『葵~徳川三代~』”. NHKアーカイブス. 2023年2月9日閲覧。






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