スクーデリア・フェラーリ 概要

スクーデリア・フェラーリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 13:40 UTC 版)

概要

ムゼオ・フェラーリに展示されるF1の歴代チャンピオンマシン

エンツォ・フェラーリによってアルファロメオのセミワークスレーシングチームとして発足し、独立後は一貫してシャーシとエンジンを内製するフルコンストラクターとして活動を続けている。

F1世界選手権創設時から参戦し続けている唯一のチームで、2009年までに最多の16回のコンストラクターズタイトルを獲得し、9人のドライバーズチャンピオンを輩出。通算最多勝・最多出走など、数多くのタイトルと記録を保持する。

フィアット傘下に入り経営効率化が進められた1970年代以降は、F1活動に専念しているが、それ以前はF2ヒルクライムレースGT/スポーツプロトタイプによる耐久レースなど、各種カテゴリーでも成功を収めている。ル・マン24時間レースでは歴代3位となる9勝を記録した。

現在は、開発及び人的資源の分散により効率化向上を目的に、F1は「ジェスティオーネ・スポルティーバ(Gestione Sportiva/GES)」部門[1]、GTによるレースと「フェラーリ・チャレンジ」、「F1クリエンティ」と「XXクリエンティ」プログラムなどは「コルセ・クリエンティ」部門と分割されている。

チームのファクトリーはマラネッロのフェラーリ本社内の市販車の工場に隣接し、敷地内には社有のテストコースである「ピスタ・ディ・フィオラノ」(フィオラノサーキット)がある。

歴史

創成期

ベニート・ムッソリーニ(車内)やヌヴォラーリ(右から3番目)らとフェラーリ(左から2番目)

1929年に、アルファロメオのレーシングドライバーで、その後アルファロメオのディーラー「カロッツェリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」の経営をしていたエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に「ソチェタ・アノーニマ・スクデリーア・フェラーリ(Società Anonima Scuderia Ferrari)」を創設した。当初はレース愛好家をサポートするディーラーチームであり、4輪の他にオートバイ部門もあった[2]

1932年に息子のアルフレードが生まれたことで、エンツォは現役を引退してチーム運営に専念し、アルファ・ロメオがワークス活動を休止するとマシンを借り受け、セミワークスチームとして活躍した。ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権のサポートも受けて参戦した1935年ドイツGPでは、タツィオ・ヌヴォラーリが強力なドイツ勢を破り、歴史的な勝利を記した。

1938年にアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した。1940年にはエンツォにより「アウト・アヴィオ・コストゥルツィオーニ(Auto Avio Costruzioni)」の社名でモータースポーツに参戦するが、同年にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため活動は中止となった。

エンツォが第二次世界大戦後の1947年にフェラーリを興し、レーシングカーと市販車の製造を始めると、再び「スクーデリア・フェラーリ」の名でレース界に参入。F1やミッレ・ミリアル・マン24時間レースなどのメジャーイベントに勝利し、強力な新興勢力となった。

1950年代

1952年 - 1953年に活躍した500F2

1950年から始まったF1世界選手権は、「本家」アルファロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決で幕が切って落とされた。1951年イギリスグランプリで、フロイラン・ゴンザレスが、それまで出走した全てのGPで勝利を獲得してきたアルファロメオを初めて破り、初勝利を獲得した。この際、エンツォは歓喜とともに「私は母親を殺してしまった」と複雑な心中を洩らした。

アルファロメオが撤退し、F2規定下で行われた1952年はスクーデリア・フェラーリの独擅場となり、アルベルト・アスカリがチーム初のチャンピオンに輝き、翌1953年も連覇を達成した。当時選手権の対象だったインディ500に不参加のため、出走レースという条件付きだが、アスカリの個人9連勝とチームの14連勝[※ 7]2023年マックス・フェルスタッペンが個人10連勝[3]、フェルスタッペンが所属するレッドブルが15連勝[4]するまで70年間最多連勝記録であった。

1954年1955年メルセデス・ベンツの後塵を拝した後、1956年にはファン・マヌエル・ファンジオが加わり、ランチアから譲り受けたマシン(ランチア・フェラーリ D50)で自身4度目の王座を得た。ライバルのマセラティが撤退した後は、F1界の盟主として英国系新興コンストラクターの挑戦を受ける立場となる。1958年はエンツォの死児の名を冠した「ディーノV6エンジン搭載車でマイク・ホーソーンがチャンピオンを獲得したものの、初代コンストラクターズタイトルをヴァンウォールに奪われた。さらに旧態な設計思想が災いし、クーパーの軽量ミッドシップマシンの台頭を許した。

1960年代

フィル・ヒルと"シャークノーズ"
156F1(1962年 ニュルブルクリンク

1961年、再び規定変更が幸いして、初のコンストラクターズとドライバーズ(フィル・ヒル)の2冠を制したが、地元イタリアGPヴォルフガング・フォン・トリップスが観客席に突っ込み死亡、14名の犠牲者を出す悲劇に見舞われた。1964年は、しぶとく戦ったジョン・サーティースが、最終戦の最終周回での逆転劇で2冠をもたらした。

しかし1960年代は押し並べてロータスなどの英国勢に先行され、チーム運営も内紛や経営不安などで混乱した。1962年には主要幹部が脱退し、翌年新チームATSを結成(フィル・ヒルも移籍する)。さらに買収交渉の決裂に端を発し、フォードがF1界へフォード・コスワース・DFVエンジンを送りこみ、フェラーリ包囲網が敷かれることになる。1969年、フェラーリ社は経営安定のためフィアット傘下に入り、市販車部門の管理を委ねたが、スクーデリア・フェラーリはエンツォが手綱を離さず、建て直しを図った。

1970年代

1976年ドイツグランプリ予選中のニキ・ラウダ312T2

312Bの、新たに開発された水平対向12気筒 "ボクサー[※ 8]" エンジンが、名門復活の力となった。1973年に25歳のルカ・モンテゼーモロがチームマネージャーとなり、1974年から加入したニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1970年代後半にチームは黄金期を迎える。引続き開発した、トランスミッションを横置きとした312Tシリーズで1975年からコンストラクターズ・タイトルを3連覇。ラウダも瀕死の大事故に遭いながら、1975年と1977年のチャンピオンに輝いた。

1979年ジョディー・シェクタージル・ヴィルヌーヴのコンビが活躍し、ダブルタイトルでボクサー黄金期を締めくくった。ヴィルヌーブは往年の名手タツィオ・ヌヴォラーリの再来と呼ばれ、ティフォシのアイドルとなった。

1980年代

ドイツグランプリで優勝を飾った
ミケーレ・アルボレート156/85
1985年8月2日

ルノーの台頭を受け、チームは1981年からターボエンジンを採用し、弱点のシャーシ設計でも、ハーベイ・ポスルスウェイトをチームに招き、英国系技術の導入を進めた。1982年1983年のコンストラクターズを連覇したが、ドライバー間の対立がチームに暗い影を落とした。1982年のサンマリノGPディディエ・ピローニの背信行為に怒ったヴィルヌーヴは、次戦ベルギーGPの予選中、冷静さを欠いた走りが事故を招いてしまい死亡。その後ピローニもドイツGPのフリー走行中に両足を粉砕骨折する重傷を負い、F1キャリアを断たれた。

それ以降は久々のイタリア人エース、ミケーレ・アルボレートが奮闘したが、ターボ開発競争でポルシェホンダのエンジンに苦杯を舐めさせられた。1988年8月には創始者エンツォ・フェラーリが90歳で死去。1か月後の地元イタリアGPでは、ゲルハルト・ベルガーマクラーレン・ホンダの連勝を止める奇跡的な1勝を挙げ、亡き総帥へ捧げた。この後、エンツォの死によりスクーデリア・フェラーリの運営権もフィアットが握ることになる。

1989年ナイジェル・マンセルが加入。マンセルには1986年よりオファーをしており2年越しの契約成立だった[5]。V12自然吸気エンジンを搭載し、斬新なセミオートマチックトランスミッションを採用したマシン640を実戦投入するも、信頼性に課題を残した。チームメイトのベルガーはこのシーズンを最後にマクラーレンへ移籍した。また、エンツォ死去後は親会社であるフィアットの影響力が強まり[6]、フィアットから送り込まれチームマネージャーとなったチェーザレ・フィオリオの意向により、3年前のジョン・バーナードの加入以来薄れつつあったイタリア純血路線への回帰が計られ、将来を見据えて同年よりイタリアの若いドライバーとオプション契約を数多く結び成長を見守る手法を実践するようになった[6]アレックス・カフィニコラ・ラリーニピエルルイジ・マルティニジャンニ・モルビデリとオプション契約を結んだ。しかしこの翌年秋にフィオリオがフラビオ・ブリアトーレとの間で独断で試みたアレッサンドロ・ナニーニの契約譲渡交渉(のちに破談)や、すでに多重契約で話が複雑化していたジャン・アレジ獲得の際に多額の移籍金が必要となり、若手4人のオプション契約はすべて解消されるなど、チームは政治的な動きを活発化させる傾向が強まった[7]

1990年代

カナダグランプリでジャン・アレジがドライブする412T21995年6月)
カナダグランプリでエディー・アーバインがドライブするF399(1999年6月)

1990年にはマクラーレンでチャンピオンを獲得したアラン・プロストが加入し、10年ぶりに“カーナンバー1”をつけた。プロストはアイルトン・セナと熾烈な王者争いを繰り広げ、惜しくもタイトルを逃したが、同年フランスGPではチームの記念すべきF1通算100勝を達成した。

1991年も引き続きプロストが残留。引退宣言を撤回してウィリアムズへ戻ったマンセルの後任にジャン・アレジを起用し、タイトル奪還を目論んだ。しかし、この年の新レギュレーションに合わせたマシン開発に失敗。シーズン中の改良も成果を挙げず、さらにはシーズン終盤にチーム批判を繰り返したプロストを解雇するなどチーム内が混乱。1986年以来の0勝に終わり、タイトル争いには全く絡めなかった。この年はフィアットからモンテゼーモロが送り込まれ、社長に就任した[8]

1992年F92Aは斬新なダブルデッキ(ダブルフロア)構造など設計上は革新的な要素を見せたマシンだったが、この構造によって重量バランスに苦心したうえ[9]、今シーズン用に新設計のエンジンを導入したものの、そのエンジンにも信頼性も含めた難のある代物であった[9]。シーズンの成績も表彰台獲得もわずか2回のみで、前年よりさらに成績が下降した。前年のプロストに続きシーズン途中でのイヴァン・カペリ解雇やマシン開発を巡って部署ごとに対立するなど[9]、チーム内の混乱も続いた。

1993年、マクラーレンから戻ってきたゲルハルト・ベルガーとアレジを据える一方、勝利の糸口が見えない危機的状況にモンテゼーモロは、チームマネージャー(監督)に、WRCル・マン24時間レースに参戦していたプジョーで実績を残してきたジャン・トッドを招聘。トッドは同年フランスGPから指揮を取り、人材確保と抜本的な体制改革に取り組んだ。

1994年ドイツGPでは4シーズンぶりにベルガーが勝利し、復活の第一歩を踏み出す。

1995年、アレジもカナダGPで自身F1初勝利を挙げ、徐々に成果も出始めた。その一方でベルガーとアレジの契約を同年で終了する。

1996年、当時2年連続ドライバーズチャンピオンミハエル・シューマッハベネトン)とエディ・アーバインジョーダン)のラインナップに一新。同年スペインGPでシューマッハが移籍後初勝利し、シーズンで計3勝を上げた。技術陣もジョン・バーナードグスタフ・ブルナーらに代わり、ベネトンのロス・ブラウンロリー・バーンらを据え、フェラーリはシューマッハを中心とする一枚岩の体制“チーム・シューマッハ”を構築する。

1997年、シューマッハはウィリアムズジャック・ヴィルヌーヴ1998年はマクラーレンのミカ・ハッキネンと僅差のタイトル争いを繰り広げたが、ともに最終戦でタイトルを逃した。

1999年イギリスGPにてシューマッハのクラッシュによる両足骨折による長期戦線離脱で体制存続が危ぶまれたり、第15戦マレーシアGPで決勝後、競技審査委員会からレギュレーション違反で一旦失格になる騒動(結果的にフェラーリはFIAの国際控訴裁判所で逆転無罪を得る)もあった。それでもシューマッハの代役エースとなったアーバインが最後までハッキネンと競り合いドライバーズタイトル獲得こそは逃したが、シューマッハの代役、ミカ・サロの活躍もあって最終戦で16年ぶりにコンストラクターズタイトルを獲得した。

2000年代

ミハエル・シューマッハがドライブするF20042004年アメリカGP

2000年代に入り、マシン開発はエアログリップを重視する傾向が強くなる。1998年の自社風洞設備(豊富な資金をバックにした、当時最先端のもの)の完成、空力に明るいデザイナー陣の存在、ブリヂストンのフェラーリ向けスペシャルスペックタイヤ(ミシュラン参戦時)の影響など、要因は複数ある[10]が、結果として裏返しに、メカニカルグリップが求められる低中速、もしくは縁石の高いサーキットでは苦戦している。特に、ダウンフォースがほとんど期待できないモナコでは2001年以降、2017年まで16年間勝利から遠ざかっていた。皮肉にも、(モナコほどではなくとも)ホームサーキットたるモンツァもマシンコンセプトと相性が悪い。

2000年は、アーバインに代わりルーベンス・バリチェロが加入。前年第8戦イギリスGPミハエル・シューマッハが事故により欠場後、同シーズンのF399の風洞開発を止めてマシンの熟成をそれ以上行わない代わりに、2000年シーズン用F1-2000の開発に注力する決断をしたことが功を奏し[11]、コンストラクターズと合わせ、シューマッハが21年ぶりのドライバーズタイトルをもたらした。その後、コンストラクターズ・チャンピオンシップは1999年から2004年まで6連覇し、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズ・チャンピオンシップ5連覇(2000年から2004年にかけて5年連続ダブルタイトル)を成し遂げた。この期間のフェラーリはブリヂストンタイヤと密接な関係を築き、他チームを圧倒した。2002年カナダGPでF1通算150勝に到達し、そのシーズンは17戦中15勝、2004年も18戦中15勝と、「最強チーム」の名をほしいままにした。

しかし、2005年は新型マシンである「F2005」が新レギュレーションへの対応に失敗、21世紀になって初めてタイトルをルノーフェルナンド・アロンソに明け渡してしまう。

2006年にバリチェロの後任として同郷のフェリペ・マッサが加入する。シューマッハが再びチャンピオン争いに加わったが信頼性不足などのために序盤で落としたレースが多く、シーズン全体的に安定感を見せていたルノーとアロンソに再び敗れた。2006年末には11年間在籍したシューマッハが現役を引退(2010年にメルセデスから現役復帰)。他のロス・ブラウンなどの主要メンバーの人事異動を含め、ひとつの節目を迎えた。

2007年はシューマッハの後釜としてマクラーレンからキミ・ライコネンが加入し、マッサとコンビを組んだ。シューマッハもスーパーアドバイザーとしてチームと新たな関係を結び、ヨーロッパラウンドの数戦はレースに帯同した。シーズン序盤は信頼性に苦しんでライバルのマクラーレンに後れを取ったが、一連のスパイ疑惑事件でマクラーレンがコンストラクターズ部門から除外されたため、同チャンピオンを早々と確定させる。中国GPでF1通算200勝を達成、そして最終戦ブラジルGPにおいてライコネンが逆転でドライバーズタイトルに輝き、コンストラクターとドライバーの二つの栄冠を奪還することに成功した。なお、ブラジルGPではマッサも2位に入って1-2フィニッシュを遂げ、最終的なシーズンポイントを204とし、マクラーレンが除外されなかった場合の203ポイントを1ポイント上回り[※ 9]、トラック上の争いでもコンストラクターズタイトルにふさわしいチームであったことを証明して見せた。また、この年の年末にはチーム代表がジャン・トッドからステファノ・ドメニカリに交代した。

2008年フランスGPではF1通算200回目のポールポジションを獲得した。この年もチャンピオン争いは混沌とし、2年連続でコンストラクターズタイトルこそ獲得したものの、ドライバーズタイトルは最終戦までマッサがランキングトップのルイス・ハミルトンを追っていたが、1ポイント差で敗れた。なお、フェラーリのタイトル獲得はこの年のコンストラクターズタイトルが最後となり、以降は獲得できていない。

2009年は苦戦を強いられた。この年から搭載が認められたKERSF60に搭載するも、当初は入賞圏内フィニッシュさえままらないほど成績が低迷し、1993年以来16年ぶりにポールポジションを記録できず、かつコンストラクターズでも4位に転落した。また、ハンガリーGPにおいて、バリチェロのマシンから外れた部品がマッサのヘルメットを直撃し、長期離脱を余儀なくされた。その苦しい状況の中で、ライコネンがベルギーGPで勝利をあげた。

なお、マッサの代役は当初はミハエル・シューマッハが起用される予定であったが、バイクレースでの事故の首の痛みがとれず、断念。テストドライバーのルカ・バドエルを起用した。しかし成績不振のため、ヨーロッパGP・ハンガリーGPの2戦のみにとどまり、イタリアGP以降はフォース・インディアより移籍したジャンカルロ・フィジケラが担当することとなった。

2010年代

2010年、最終戦でタイトルを逃したフェルナンド・アロンソ
2011年東日本大震災追悼の日の丸をつけて走るフェリペ・マッサ

2010年は、ライコネンの後釜としてルノーからフェルナンド・アロンソが加入し、マッサとコンビを組んだ。2005・2006年の王者であるアロンソが5勝を挙げ、アロンソがポイントリーダーという状況で最終戦を迎えたが、ピット作戦などのミスが重なり、それまでランキング3位だったセバスチャン・ベッテルに年間王者をさらわれた。

2011年の序盤戦はマシンのパフォーマンスに苦しみ、5月にはテクニカルディレクターのアルド・コスタが解任されて別の部署に回され、コスタはその後フェラーリを退社した[12]。フェラーリの風洞には不備があり、風洞での結果と実際のコース上でのパフォーマンスが一致しないという問題を抱えていた[13]。中盤になるとレッドブル勢やマクラーレン勢とほぼ互角に戦えるようになり、イギリスGPではフェラーリのF1初勝利から60周年の節目でアロンソが勝利を飾った。アロンソが最終戦までバトン、ウェバーとランキング2位を争ったが、最終的にはアロンソがランキング4位、マッサがランキング6位、コンストラクターズランキングでは3位となった。

2012年はマシンの競争力が低かったが、アロンソが第2戦で優勝し、マシンの大幅なアップデートが行われた第5戦以降、着実にポイントを積み重ね、第8戦と第10戦で優勝し、ランキングトップとなった。しかし、第12戦、第15戦でスタート直後に他車に接触されてリタイア。後半戦で復調してきたベッテルにランキングでの逆転を許し、最終戦までチャンピオンを争ったものの、3ポイント差のランキング2位でシーズンを終えた。

風洞の不備はこの年も解決されず、フェラーリはドイツ・ケルンのトヨタの風洞設備を使用してマシンを改良した[14]。そして、自社の風洞を2013年8月まで閉鎖し、問題の解決にあたることを決めた。2013年型マシンの開発は全てトヨタの風洞設備で行われた[15]

2013年は、アロンソが第3戦と第5戦で優勝したが、レッドブル勢とのマシンの性能差が大きく、コンストラクターズランキング2位をメルセデス勢と争うのが精いっぱいだった。

2014年、長年在籍したマッサがウィリアムズに移籍し、後任としてロータスよりライコネンが復帰した。4月にチーム代表のドメニカリが成績不振の責任を取る形で辞任。後任にはフェラーリ北米部門のCEOを務めるマルコ・マティアッチが就任した[16]。パワーユニット(以下、PUと表記)の導入によるレギュレーションの大変革もあって、シーズンを通して苦戦し、このシーズンは結局1993年以来の未勝利シーズンとなってしまった。シーズン終了後、マティアッチが成績不振の責任を取る形で辞任。後任にはフェラーリのスポンサーでもあるフィリップモリスの前副社長であるマウリツィオ・アリバベーネがジェスティオーネ・スポルティーバのディレクターに即時就任すると発表した。これに伴い、チーフデザイナーのニコラス・トンバジスをはじめ、パット・フライ浜島裕英高柳弘樹らがチーム離脱となるなど人事も大幅に刷新されることになった。また、レッドブルのマシンデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの引き抜きを巨額のサラリーを提示した上で狙ったが、最終的にニューウェイが辞退したことで実現には至らなかった[17]

2015年マレーシアGPでフェラーリ移籍後初勝利を挙げたセバスチャン・ベッテル

2015年、アロンソがマクラーレンへ移籍し、レッドブルよりセバスチャン・ベッテルを迎える。マレーシアGPで、ベッテルが約2年ぶりの勝利を果たすとハンガリーGPではスタートで2台ともロケットスタートを決めフロントローにいた2台のメルセデスを抜き去り、ライコネンがトラブルでリタイアするまで1-2体制でレースを進めベッテルが優勝。また、シンガポールGPにおいて、ベッテルがポールポジションを獲得し優勝。そのため、ベッテル個人としては約2年ぶり、フェラーリとして約3年ぶりのポール・トゥ・ウィンも達成した。ライコネンも第4戦バーレーングランプリでフェラーリ復帰後初表彰台となる2位表彰台を獲得。トラブルなどの不運に見舞われることが多くベッテルに差はつけられているものの前年と比較するとパフォーマンスは大きく向上している。最終的にベッテルはランキング3位、ライコネンはランキング4位。コンストラクターズランキングは2位でシーズンを終えた。

2016年、ドライバーはベッテルとライコネンが残留。前年の活躍からシーズン当初はメルセデス勢に最も対抗できると期待された。開幕戦オーストラリアGPでは、2人が前年のハンガリーGPの再現のようなスタートを見せ1-2体制でレースを進めていたが、クラッシュによる赤旗中断からのレース再開後の戦略でメルセデス勢に逆転を許した。第2戦はライコネン、第3戦ではベッテルがそれぞれ2位に入るなど出だしはまずまずであった。しかしメルセデス勢がオープニングラップで同士討ちでリタイアしたスペインGPではレッドブルのマックス・フェルスタッペンに優勝をさらわれ、さらにレッドブルが翌戦のモナコGPからアップグレードされたルノーエンジンを手に入れた後は、レッドブルの後塵を拝するレースが続く。この不振の最中の7月27日、テクニカルディレクターのジェイムズ・アリソンがチームから離脱することを発表した[18]。その直後のドイツGPでコンストラクターズポイントでもレッドブルに抜かれ3位に後退した。地元イタリアGPを前にセルジオ・マルキオンネ会長は2016年のマシン開発に「失敗」したと認めた[19]。このイタリアGPでベッテルが6戦ぶりに表彰台に立ちティフォシからの歓声を浴びたが、以後は4位もしくは5位が定位置で、表彰台は基本的にメルセデスの両者とレッドブルの片方のドライバーという構図が固まってしまい、コンスタントラクターズランキングも最終戦を待たずして3位が確定した。最終戦アブダビGPでベッテルがファステストラップを記録し3位表彰台に立ったが、最終的に未勝利のままシーズンを終えた。

地元イタリアGPでモータースポーツ参戦70周年を記念した特別カラーリングを施したSF70H

2017年もベッテルとライコネンの両名が残留。2017年型マシンのSF70Hは冬季テストから好タイムを出し、期待が持たれるシーズンとなった。開幕戦オーストラリアGPでベッテルが優勝し、チームとして7年ぶりの開幕戦優勝を果たした。バーレーンGPでもベッテルが優勝、ロシアGPではベッテルがポールポジション、ライコネンが2番グリッドを獲得し、2008年フランスGP以来、実に9年ぶりのフロントロー独占を果たした。モナコGPでもライコネンがこれまた2008年フランスGP以来となるポールポジションを獲得、フェラーリのモナコグランプリでのポールポジションも2008年以来のフェリペ・マッサ以来、9年ぶりである。さらにベッテルも予選2位に入りフロントローを独占した。決勝でもベッテルが優勝、ライコネン2位となりフェラーリにとっても2001年以来、16年ぶりにモナコGPを制した。その後の4戦はメルセデス勢の後塵を拝したが、ハンガリーGPではモナコGPに続いてフロントロー独占と1-2フィニッシュを達成し、ベッテルがポール・トゥ・ウィンを飾った。しかし、後半戦に入るとそれまでの躍進が嘘のように失速傾向となり、特にアジアラウンドの3連戦でアクシデントやマシントラブルが頻発する事態に陥ってしまい、メルセデス及びハミルトンの独走を許したどころか、レッドブル勢にも迫られることにまでなってしまった。最終的にブラジルGPでベッテルが8戦ぶりに優勝、またライコネンが終盤5戦で着実にポイントを獲得しレッドブル勢がトラブル続きで失速するなどしてコンストラクターズランキング2位の座は守ったが、終盤のトラブルが惜しい1年となった。

2018年も引き続き、ベッテルとライコネンの両名が残留。序盤はメルセデス勢のスタートダッシュの失敗に付け入ったベッテルが開幕連勝を果たしたほか、第7戦カナダGP、第10戦イギリスGPでも優勝し、ドライバーズランキングではベッテルがハミルトンと、コンストラクターズランキングでもメルセデスと、それぞれ接戦に持ち込んでいた。しかし、ドイツGPでベッテルが首位を快走してる中でのドライビングミスによりクラッシュしリタイアしたことをきっかけに流れが一気に変わり[20]、このあたりから2017年後半戦のような失速傾向となる。ベルギーGPではベッテルが優勝するが、イタリアGPではフロントローを独占しながらスタート直後にベッテルがハミルトンに接触し大幅に順位を落とすなどのミス、ポールポジションを獲得したライコネンも終盤にハミルトンに抜かれ2位に終わる。シンガポールGPではタイヤ戦略に失敗し、メルセデス勢に常に後れを取るなどの戦略面でのミスも目立ち、シーズンで最速のマシンを持っていると前置きをしながらベッテルのミスを非難する関係者も多いが[21]、一方でイタリアGP後に元F1CEOバーニー・エクレストンはチームの運営方法がシューマッハ時代と比べて劣っていることを苦戦の要因として指摘している[22]。 チームとして精彩を欠くなか、アメリカGPでは、ベッテルがリカルドと接触して順位を落とす一方、ライコネンがフェラーリ復帰後初勝利を挙げた。メキシコGPは両者ともメルセデス勢を上回ったものの優勝できず、僅かに残っていたベッテルのタイトルの可能性は完全に消滅、ハミルトンの5冠を許してしまった。続くブラジルGPでハミルトンにポール・トゥ・ウィンを許し、コンストラクターズタイトルの可能性も消滅したものの、アブダビGPでフェラーリとしてラストレースとなったライコネンはマシントラブルでリタイアしたが、ベッテルが2位でフィニッシュし、全参戦チームのなかで唯一(チームとしての)全戦入賞を達成した。 シーズン終了後に、2016年王者のニコ・ロズベルグが戦略ミスの多発やチームの団結に問題があったと指摘[23]。チーム代表のアリバベーネもドライバーのミスの以外にもマルキオンネの死を含むチームが混乱する事態の対応に失敗したことも失速した原因であるとコメントした[24]。 また同年の日本GPから、フィリップモリスのプロジェクトロゴである「Mission Winnow」が追加された新カラーリングとなっている[25]

バルセロナテストを走るSF90

2019年はライコネンと結果的に入れ替わる形でザウバーからシャルル・ルクレールが加入。ロズベルグはベッテルが立ち直らんとする時期に才能を高く評価されている若手であるルクレールの加入が影響を及ぼす可能性を指摘している[23]。そんな中、年明け早々にマウリツィオ・アリバベーネがチーム代表の座を更迭され[26]マッティア・ビノットが新たにチーム代表に就任した[27]。プレシーズンテストでの好結果を踏まえ、開幕前はチャンピオンの大本命とされていたが[28]、開幕戦からマシンの戦闘力という点ではメルセデス勢に太刀打ちできなかったうえ、レース戦略も迷走[29]し、F1史上初となる開幕から5戦連続の1-2フィニッシュを許すことになった[30]。第6戦モナコGPでベッテルが結果的[31]にメルセデス勢の開幕6戦連続ワンツーを阻止する2位表彰台を獲得したが、この2位は元々2位でフィニッシュしたレッドブルのマックス・フェルスタッペンがペナルティを受けての2位であり、ここでも予選で戦略ミスによりルクレールがQ1で脱落するなど、戦闘力不足及びレース戦略の迷走が続いていた。 シーズン前半でメルセデス勢より先行できたのは第2戦バーレーンGP、第7戦カナダGP、第9戦オーストリアGPのみ。そのレースも第2戦はルクレールの快走により、彼自身かつ今季初優勝目前であったが、PUトラブルで逃し[32]、第7戦はベッテルがトップでチェッカーを受けものの、見解が分かれるペナルティによって優勝を逃した。結果的に前半戦最大のチャンスでもあった第9戦はポールポジションからスタートしたルクレールがレース終盤まで首位を走っていたが、猛烈な追い上げを見せたフェルスタッペンに抜かれて2位に終わり、前半戦は未勝利に終わった。 後半戦に入ると、ベルギーGPでルクレールがポール・トゥ・ウィンで自身初優勝を成し遂げると、続くイタリアGPでもルクレールが2戦連続でポール・トゥ・ウィンを果たし、2010年のフェルナンド・アロンソ以来のフェラーリのイタリアGP優勝、およびフェラーリ移籍初年度でのイタリアGP優勝を果たしティフォシ達を喜ばせた。さらにシンガポールGPではベッテルが今季初優勝、および1-2フィニッシュを果たし、2008年以来となるチーム3連勝を記録した。 しかしその後は2017年以降の後半戦を再現するかのように、チーム戦略の迷走が深刻化[33]。そのうえ、今季はルクレール加入のリスクが指摘[23]されていたのだが、それが的中する形となり、後半戦はドライバー管理も迷走。日本GPのようにフロントロー独占といった予選での速さを見せながら、決勝で失敗するという場面が多々見受けられるようになる[34]。チームとして、ポールポジション9回、3勝を記録し、コンストラクターズランキングは2位となった。両ドライバーともドライバーズランキング3位獲得の可能性はあったのだが、ブラジルGPでの同士討ちもあって、その座をフェルスタッペンに奪われることとなってしまい、ルクレールがランキング4位、ベッテルがランキング5位でシーズンを終えることとなったが、ルクレールがシーズン個人最多ポールポジション回数(7回)を記録した。またPUの問題に関しては、シーズン終了後にFIAと「秘密の和解合意」をしたことにより、フェラーリ製PUを使うチーム以外から合同声明による抗議が行われるなど[35]、翌年以降にも尾を引く問題となった。

2020年代

1,000戦目を記念した特別カラーリングが施されたSF1000を駆るルクレール(2020年トスカーナGP

2020年もベッテルとルクレールが残留するが、前述したPUの問題と、この年投入されたSF1000の空力面の欠陥[36]に加え、新型コロナウイルス感染症の影響に伴う開発スケジュールの支障が他チーム以上に影響を及ぼす事態となったこともあり[37]、開幕戦の段階でマシンの戦闘力不足が改めて露呈[38]。シーズン中に認められていたアップデートも効果が出ず[39]、シーズンとしての成績は、未勝利での計3回の表彰台獲得のみ。コンストラクターズランキング6位に終わった。フェラーリがコンストラクターズで5位以下に終わったのは1980年以来となる。シーズン中にベッテルがアストンマーティン(旧レーシング・ポイント)への移籍を発表した。

2021年マクラーレンからカルロス・サインツを迎え、ルクレールとコンビを組む。マシンはSF1000を改良したSF21を投入する[40]。 チームはシミュレーション上で前年型の問題点の解消と戦闘力の向上に成功したとコメントしており[41]、プレシーズンテストでもサインツがドライバー別のタイムで3位を記録したことから、少なくとも前年型より戦闘力があるマシンであることを示唆した[42]。シーズン成績は、ルクレールは表彰台1回ながらもポールポジションを2回獲得。サインツはシーズン唯一の全戦完走に加え、第11戦ハンガリーGPの繰り上げも含まれるが表彰台を計4回獲得という成績となった。チームとしては2年連続となるシーズン未勝利に終わったものの、前年は17戦中5回のみだったダブル入賞の回数は22戦中17回、そのうち5戦で表彰台を獲得。前年のランキング上位のチームとなるマクラーレンアルピーヌがそれぞれ優勝を1回記録していたものの、両チームを上回る入賞率によって、コンストラクターズランキング3位に返り咲く結果となった。

2022年もサインツとルクレールが残留。この年のマシン、F1-75は開幕前のテストで好走を見せると[43]と、開幕戦バーレーンGPでは、2010年以来となる開幕戦ワンツーフィニッシュ(ルクレール優勝、サインツ2位)を達成。第3戦オーストラリアGPではルクレールがグランドスラムを達成して優勝。3戦を終えた地点ではレッドブル勢にトラブルが相次いだことやメルセデス勢が不調に陥っていたため、ドライバーズ、コンストラクターズランキング共に圧倒的有利な状況になると思われていた。 しかし第4戦エミリア・ロマーニャGP以降は、レース戦略の迷走やマシントラブル、ドライバーのミスが多々見られるようになってしまいチーム別でシーズン最多の12回のポールポジションを記録しながらも優勝はルクレール3勝、サインツ1勝の4勝に留まり、エミリア・ロマーニャGP以降復調したフェルスタッペン、及びレッドブル勢にタイトルを奪われてしまった。ドライバーズランキングはルクレールが2位、サインツが5位となった。

2023年もサインツとルクレールが残留。昨シーズン限りでビノットがチーム代表を退任し、新たに前年までアルファロメオのチーム代表を務めていたフレデリック・バスールがチーム代表に就任した[44]シンガポールGPでサインツがレッドブルの全勝を阻止した[45]が、ランキングはメルセデスに及ばず3位に終わった。

2024年もサインツとルクレールのコンビとなったが、開幕前の2月1日にルイス・ハミルトンが翌2025年からフェラーリに移籍することを発表[46]。これによりサインツはこの年をもって離脱することになった[47]。第2戦サウジアラビアGPの期間中にサインツが虫垂炎を患い手術が必要になったため、リザーブドライバーのオリバー・ベアマンが急遽代走を務めた[48]。18歳でのF1デビューはフェラーリ史上最年少である[49]。サインツは復帰した第3戦オーストラリアGPで勝利を挙げ、ルクレールとともに1-2フィニッシュを飾った[50]。ルクレールは第8戦モナコGPで母国グランプリ初優勝を飾った[51]

ドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー


注釈

  1. ^ ノースアメリカン・レーシングチーム(NART)名義で出場したレースを含む。
  2. ^ ワークスのスクーデリア・フェラーリがプラクティスを撤退し、プライベーターのピーター・ホワイトヘッド英語版のみ出場した1950年フランスグランプリは除く。
  3. ^ プライベートチームの1勝(1961年フランスグランプリジャンカルロ・バゲッティ)を除く。
  4. ^ プライベートチームの5回を除く。
  5. ^ 1954年イギリスグランプリ1970年オーストリアグランプリはスクーデリア・フェラーリ所属ドライバー2人が記録。プライベートチームの1回(1961年フランスグランプリジャンカルロ・バゲッティ)を除く。
  6. ^ イタリア語発音: [skudeˈria ferˈrari] スクデーア・フェ(ッ)ーリ
  7. ^ インディ500を含めた場合は両方とも7連勝にとどまる。その後、2013年セバスチャン・ベッテルが個人9連勝を達成した。
  8. ^ 312BのBの由来でもあるボクサーという通称だが、そのエンジンは実際にはいわゆる「180度V型」であり、スバルやポルシェのボクサー水平対向とは異なる。
  9. ^ ただし、ハンガリーGP分の剥奪ポイントも含めた両ドライバーの単純合計では、マクラーレンは218ポイントとなる
  10. ^ 1970年代のボクサーエンジンは、厳密には「180度V12」であるが。

出典

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