4横綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:23 UTC 版)
番付上に最も多くの横綱が出揃ったのは4人までで、現在まで16通りの例がある。 例開始場所横綱(太字は新規昇進者)最終場所場所数終了理由1 1917年(大正6年)5月場所 大錦卯一郎2代西ノ海嘉治郎鳳谷五郎太刀山峯右エ門 1918年(大正7年)1月場所 2 太刀山が引退 2 1918年(大正7年)5月場所 栃木山守也大錦卯一郎2代西ノ海嘉治郎鳳谷五郎 1918年(大正7年)5月場所 1 西ノ海が引退 3 1938年(昭和13年)1月場所 双葉山定次男女ノ川登三武藏山武玉錦三右エ門 1938年(昭和13年)5月場所 2 玉錦が5月場所後に死亡 4 1943年(昭和18年)1月場所 照國萬藏安藝ノ海節男羽黒山政司双葉山定次 1945年(昭和20年)11月場所 7 双葉山が引退 5 1949年(昭和24年)1月場所 東富士欽壹前田山英五郎照國萬藏羽黒山正司 1949年(昭和24年)11月場所 3 前田山が引退 6 1951年(昭和26年)9月場所 千代の山雅信東富士欽壹照國萬藏羽黒山正司 1953年(昭和28年)1月場所 5 照國が引退 7 1953年(昭和28年)3月場所 鏡里喜代治千代の山雅信東富士欽壹羽黒山正司 1953年(昭和28年)9月場所 3 羽黒山が引退 8 1954年(昭和29年)3月場所 吉葉山潤之輔鏡里喜代治千代の山雅信東富士欽壹 1954年(昭和29年)9月場所 3 東富士が引退 9 1955年(昭和30年)1月場所 栃錦清隆吉葉山潤之輔鏡里喜代治千代の山雅信 1958年(昭和33年)1月場所 14 吉葉山と鏡里が同時引退 10 1961年(昭和36年)11月場所 大鵬幸喜柏戸剛3代朝潮太郎初代若乃花幹士 1962年(昭和37年)1月場所(相撲番付上) 1(2) 朝潮が1月場所前に引退 11 1965年(昭和40年)3月場所 佐田の山晋松栃ノ海晃嘉大鵬幸喜柏戸剛 1966年(昭和41年)11月場所 11 栃ノ海が引退 12 1979年(昭和54年)9月場所 三重ノ海剛司2代若乃花幹士北の湖敏満輪島大士 1980年(昭和55年)11月場所 8 三重ノ海が引退 13 1987年(昭和62年)11月場所 大乃国康北勝海信芳双羽黒光司千代の富士貢 1988年(昭和63年)1月場所(相撲番付上) 1(2) 双羽黒が1月場所前に廃業 14 1990年(平成2年)9月場所 旭富士正也大乃国康北勝海信芳千代の富士貢 1991年(平成3年)5月場所 5 千代の富士が引退 15 1999年(平成11年)7月場所 武蔵丸光洋若乃花勝貴乃花光司曙太郎 2000年(平成12年)3月場所 5 若乃花が引退 16 2017年(平成29年)3月場所 稀勢の里寛鶴竜力三郎日馬富士公平白鵬翔 2017年(平成29年)11月場所 5 日馬富士が引退 最初の4横綱は、1917年5月場所、太刀山、鳳、2代西ノ海、大錦によって実現した。翌1918年5月には太刀山の引退と入れ替わりに栃木山が誕生し、同場所で西ノ海が引退するまで連続3場所4横綱時代が続いた。東西制のため総当たりは不可能だった。 4横綱総当りは、春秋園事件の余波で一門系統別総当たり制の実施されていた1938年5月場所に玉錦、武藏山、男女ノ川、双葉山によって初めて実現した(この顔ぶれ自体は前場所の1月場所からだが、この時は武蔵山が途中休場)。結果は、双葉山3戦全勝、武藏山2勝、男女ノ川1勝、玉錦3戦全敗だった。この場所は武藏山と男女ノ川は6勝6敗どうしの千秋楽対決という悲惨な結果となっている(武藏山が勝ち、男女ノ川が負け越し)。 同じ顔触れで最も長く続いた4横綱時代は千代の山、鏡里喜代治、吉葉山、栃錦による14場所。1955年1月場所で栃錦が昇進してから、1958年1月場所後に鏡里と吉葉山が同時に引退するまで続いた。4横綱の皆勤は1956年(昭和31年)3月場所の1場所きりとなったものの、8場所で4横綱のいずれかが優勝(吉葉山に優勝がないのを除き、他の3横綱が複数回の優勝)を果たしている。千代の山と栃錦は同門のため対戦しなかった。 4横綱の合計勝ち星の最多は、1943年1月場所の54勝(6敗)。双葉山15戦全勝、羽黒山13勝2敗、安藝ノ海12勝3敗(双葉山への不戦敗あり)、照國14勝1敗で、横綱同士以外で喫した黒星は2つだけだった。この4人は翌5月場所でも52勝8敗で、4横綱皆勤場所に限ればこれが最高成績となる。逆に4横綱皆勤しての最少勝ち星は1956年3月場所、千代の山8勝、鏡里8勝、吉葉山11勝、栃錦9勝で36勝(24敗)。 1961年11月場所で柏戸、大鵬が2人同時昇進となり、初代若乃花、3代朝潮と17場所ぶり4横綱となったが、翌場所の直前に朝潮が引退を表明したため、この4横綱は実質上1場所のみ(番付上では翌1962年1月場所とあわせて合計2場所)だった。若乃花と大鵬は同門のため対戦なし。 現行の年6場所制定着後で最も長かった4横綱時代は柏戸、大鵬、栃ノ海、佐田の山による11場所で、1965年3月場所から1966年11月場所までである。実質の4横綱皆勤は1965年9月場所の一度きりであったが(1965年5月場所では大鵬が千秋楽のみ休場、佐田の山に不戦敗)全盛期の大鵬を中心に11場所すべて4横綱のいずれかが優勝している。 4横綱皆勤の最も多かったのは、輪島、北の湖、2代若乃花幹士、三重ノ海で、1979年9月場所から1980年11月場所までの8場所中3場所となっている。4横綱総当り3回も最多。 昭和末期の1987年11月場所では千代の富士、双羽黒、北勝海、大乃国の4横綱が全て皆勤となったが、11月場所後に双羽黒が廃業となったため、この4横綱は1場所のみ(番付上では翌1988年1月場所と合わせて合計2場所)となってしまった。千代の富士と北勝海は同部屋のため対戦なし。 平成時代の1例目は千代の富士、北勝海、大乃国、旭富士の4横綱時代が、1990年9月場所から1991年5月場所までの5場所連続であるが、全員皆勤となったのは1990年11月場所の1場所のみだった。このときも千代の富士と北勝海は同部屋のため対戦なし。その後1991年5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、大乃国、旭富士、北勝海が僅か1年の間に相次いで引退してしまい、横綱空位となった。 平成時代2例目の4横綱だった曙、貴乃花、若乃花(勝)、武蔵丸は1999年7月場所から2000年3月場所まで5場所続いたが、2000年(平成12年)3月場所で若乃花が引退となるまで、4横綱全員が皆勤する場所も、4人全員がそろって勝った日も一度も無いままに終わってしまった(4横綱が揃っての出場は1999年9月場所初日・2日目、及び2000年3月場所初日〜5日目の計7日間のみ)。2016年の千代の富士逝去によって、4人全員健在の最古の4横綱となった。 2017年1月場所で優勝した稀勢の里が横綱に昇進し、同年3月場所は稀勢の里、白鵬、鶴竜、日馬富士による4横綱となった(17年ぶりに平成時代3例目)。4横綱となった時点(4人目の横綱が昇進した時点)で外国籍を持つ横綱が含まれるのはこのケースが初である(平成時代2例目の曙と武蔵丸は外国出身だが、4横綱の時点では両方ともすでに日本に帰化していた)。同年11月場所後に日馬富士が不祥事で引退したため、5場所で終了。本場所で総当たりする4横綱としては36年ぶりだったが、4横綱全員が皆勤した場所はないまま終わった。4人全員がそろって勝ったのは3月場所の2日目と5月場所の3日目の2回しかなかった。
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