7月王政
7月王政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 07:53 UTC 版)
「ルイ・フィリップ (フランス王)」の記事における「7月王政」の解説
ナポレオン1世失脚後の1814年に、同じく亡命していた妹のアデライードとフランスに帰国した。1830年の7月革命でブルボン朝の復古王政が倒れると、ラ・ファイエットら自由主義者や大資本家、銀行家をはじめとするブルジョワジーに擁立されて国王となり、1830年憲章に基づく7月王政が成立した。ルイ=フィリップ1世は「フランスの王」(roi de France)ではなく「フランス人(フランス国民)の王」(roi des Français)を称し、政治体制は絶対王政を否定して立憲君主制が採られた。1831年、オルレアン家の代々の邸宅パレ・ロワイヤルからテュイルリー宮殿の公邸に移り、また責任内閣制を導入してアドルフ・ティエールやフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーらを首相に登用し、さらに国内の安定と繁栄をはかるために経済の奨励を行ってフランスに産業革命をもたらした。 対外政策においては、後のフランス帝国主義政策に先鞭をつけた。北アフリカでは、1830年に始まるアルジェリア出兵を引き継ぎ、1834年にはアルジェリアを併合した。また、ナポレオン戦争期から続く青壮年男性人口の減少・伸び悩みを踏まえ、アルジェリア出兵による自国民の死傷者を軽減するため、今に続くフランス外人部隊の設立勅書を1831年に出した。ラテンアメリカでは、当時政情不安定であったメキシコに介入し、1838年に菓子戦争を起こして勝利した。極東では、アヘン戦争で敗れた清に対して1844年に黄埔条約を自国に有利な形で締結し、海禁政策を採るインドシナの阮朝大南国に対しては1847年にダナン港を砲撃して圧力をかけた。一方、2度のエジプト・トルコ戦争ではいずれもエジプトを支持して地中海地域への影響力の強化を狙ったが、1840年のロンドン条約で列強にこれを阻止されるなど、ヨーロッパでは東方問題をめぐって国際的に孤立した。 7月王政期のフランスは市民革命の成果として自由主義の確立と資本主義の発達を見たが、選挙権を上層ブルジョワジーに限る制限選挙が維持され、産業革命によって形成された小ブルジョアやプロレタリアートによる普通選挙実現の要求が高まるようになると、政府はこれを弾圧した。また1846年以来の恐慌の影響もあって社会不安が高まった。このような状況の中、選挙法改正をはじめとする政治改革を謳う「改革宴会」と呼ばれる宴会が催されるようになったが、1848年2月22日開催予定の改革宴会が政府によって開催禁止処分を受けると、これに反発した民衆が蜂起し、2月革命に発展した。ルイ=フィリップ1世は2月23日にギゾー首相を更迭してこれに対処したものの事態の収拾はつかず、2月24日に退位してイギリスに亡命した。同日パリでは共和主義者と社会主義者によって組織された臨時政府によって共和政が宣言され、第二共和政が成立した。亡命先のイギリスではヴィクトリア女王からクレアモントの居館をあてがわれたが、2年半後に同地で客死した。 こうして7月王政は終わり、オルレアン朝は1代で終わった。7月王政を打倒した2月革命は諸国民の春としてヨーロッパ諸国に波及し、ウィーン体制の崩壊を招いた。また900年余り続いた、ユーグ・カペーに始まるカペー朝とその支流によるフランスの王政は、ここにその幕を閉じた。
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7月王政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:57 UTC 版)
シャルル10世は法令を撤回するが退位を強いられ、衆議院ではオルレアン公爵ルイ・フィリップが王座について7月王政となった。 1831年2月13日、サンジェルマンロクセロワ教会で王朝派のデモが起こると、群衆が乱入したが、政府は介入しなかった。同年末に王はチュイルリー宮へ移転した。コレラが流行し、毎日1000人以上の犠牲者が出た。コレラの流行では19,000人以上が死亡した。 1832年6月5日、ラマルク将軍の葬儀で共和派が暴動したが鎮圧された。 1835年7月28日にはコルシカのフィエスキが暴動をおこし、14名の死者が出た。 1836年には、ナポレオン時代より建設が続いていたエトワール凱旋門が完成した。 1840年12月15日、ナポレオンの遺骸がジョワンビル親王によって持ち帰られ、アンヴァリッドに安置された。 騒乱が少なくなると、工業と商業が発展し、道路や歩道が開通し、広場が設置され、清潔になり、ガス灯も普及した。一方、労働者は不衛生な状態で働いており、子供も6歳から働いた。1841年には8歳未満の子供を雇うことが禁止された。この時期、産業革命の波が訪れ、新たに建設された鉄道により地方部から移住してきた労働者によって、パリは急成長を遂げた。人口は90万人を越えヨーロッパではロンドンに次ぐ規模であり、世界でも3番目に大きく、フランスで圧倒的に大きな都市となった(パリに次ぐリヨン、マルセイユの人口はそれぞれ115,000人程度であった)。このようなパリの地位の高まりは、新たに建設されたエトワール凱旋門やナポレオンの墓であるオテル・デ・ザンヴァリッドなどの壮麗な記念建造物にも表れている。 ルイ・フィリップ治世下のパリでは、バルザックやユゴーの小説やサント=ブーヴの評論が読まれた。とくにウジェーヌ・シューの1843年の『パリの秘密』は成功し、連載されていたデバ紙を人々は奪い合った。
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7月王政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 18:13 UTC 版)
1830年7月、シャルル10世が議会の解散等を命ずる勅令を発したことをきっかけに、フランス7月革命が勃発し、ブルボン王朝は再び倒れた。共和派、ボナパルト派、王党派の妥協の産物として、ルイ・フィリップが王位に就き7月王政となった。ルイ・フィリップは、美術の面では、自由主義者であることを示そうとして、公的注文やサロンでの政府買上げにおいて、幅広い流派を採用した。また、彼は、1833年、芸術家らの要望を受け、アカデミーの反対にかかわらず、サロンを毎年開催とし、さらに、展示作品数も3000点超まで増やした。そのことも芸術の大衆化を進める要因となった。歴史画の大作より、新興ブルジョワジーの家庭に飾るのに適した風景画、風俗画、肖像画が好まれるようになってきた。多くの美術批評家が生まれ、文芸誌にサロン評を掲載するようになった。サロンは、画家と、絵画の新しいパトロンである新興市民階級が出会うほとんど唯一のまとまった展覧会であったため、商品展示場としての性格を強めた。 こうした8月王政下のサロンの在り方について、オノレ・ド・バルザックは、次のように批判している。 1830年の革命以後に開かれた絵画彫刻の展覧会を真面目に見ようと訪れた者は、その度に、雑多な作品の詰め込まれたあの長い展示場を見て、不安と、嫌悪と、悲哀の念にとらわれたのではないだろうか。1830年以来、もはや「サロン」は存在しない。ルーヴルは、芸術家という名の民衆によって再び攻略され、彼らはそこに居座ってしまった。 — オノレ・ド・バルザック、『ピエール・グラッスー』
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