7月王政期から第二帝政期(1830年 - 1871年)
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「レジティミスム」の記事における「7月王政期から第二帝政期(1830年 - 1871年)」の解説
1830年の7月革命で、より自由主義的な政治を支持するオルレアン家のルイ・フィリップが王位にのぼると、ユルトラたちは田舎にある自分たちの城に戻って公的活動から完全に身を引いてしまい、その影響力は衰えた。彼らは時とともにその政治信条を軟化させ、ブルボン家の王位復帰が彼らの第一目標となった。1830年以後、ユルトラたちはレジティミスト(正統王朝主義者)として知られるようになった。 1830年から1848年の7月王政期、レジティミストたちは日蔭者の地位に追い込まれ、多くが積極的な政治参加を止めた。自分たちにとって正統な国王は誰なのかという議論があった1844年以前には、レジティミストをめぐる状況はより錯綜していた。シャルル10世と息子の王位継承者アングレーム公ルイ・アントワーヌは、彼らの孫と甥であるシャンボール伯爵アンリのために王位請求を放棄していた。シャルル10世とアングレーム公が1836年と1844年にそれぞれ没するまでレジティミストたちは、正統主義の面からどちらかと言えばシャンボール伯ではなく、王位を放棄した2人を国王とそれぞれ認めていた。 ルイ・フィリップが1848年革命で王位を追われると、レジティミストたちの立場は強まった。シャンボール伯に子供が出来ないことがレジティミストたちの弱みだったが、彼らは第二共和政時代に政治的存在感を見せた。レジティミストはオルレアニスト(オルレアン王朝主義者)と連合して秩序党を結成し、1849年5月の総選挙から1851年12月2日に大統領ルイ=ナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こすまで政権与党の地位にあった。レジティミストは1848年12月から1849年11月まで続いたオディロン・バロ内閣の重要な一角を占め、中等教育をカトリック教会の手に委ねることを定めたファルー法を通過させた。 この時期、レジティミスト陣営ではオルレアニストとの「融合」がさかんに議論された。両党派の融合によって、王政回帰をよりスムーズに実現できるのではないか、と考えられたのである。この動きに期待したルイ・フィリップの息子たちの何人かは、シャンボール伯を国王として持すると表明した。しかし両派の合同は実現せず、1850年以後は再び対立するようになった。熱心なオルレアニストはルイ・フィリップの三男ジョアンヴィル公を共和国の大統領候補に擁立しようとしており、これに対してレジティミスト陣営の大多数は、次善の策として対抗馬のボナパルト支持に傾いていた。これがボナパルトの野心実現を後押ししたのであるが、レジティミストたちは1851年12月にボナパルト大統領が決めた普通選挙制への移行には反対した。そしてオルレアニストの指導者たちと同様、レジティミストの指導者もボナパルトのクーデターに際して逮捕された。第二帝政の崩壊まで、レジティミストは再び国政から締め出された。
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