集団移住後のジョーンズタウンの生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:04 UTC 版)
「ジョーンズタウン」の記事における「集団移住後のジョーンズタウンの生活」の解説
人民寺院の信者の多くは、ジョーンズタウンがジョーンズが約束したような楽園、ユートピアであると信じていた。しかしながら、ジョーンズが移住してくるとジョーンズタウンの生活は大きく変わってしまう。最初期の移住者達は、ジョージタウンよりもたらされる娯楽映画を楽しんでいたというが、ジョーンズが移住してきてからはソビエト連邦のプロパガンダ映画や、アメリカの社会問題を描いたドキュメンタリー映画ばかりが優遇されるようになってしまい、娯楽映画はほとんど上映されることが無くなった。ジョーンズの移住後の官僚的な要求によって、労働力は他の要件に割かれることとなった。建築物は荒野に崩れ落ち、雑草の侵食が激しかった。学校の授業や大人たちへの夜間授業は、ジョーンズによる革命と大敵に対する講義に様変わりし、その中ではソビエト連邦の同盟、ジョーンズの危機、そして人民寺院を脱退して敵対姿勢を鮮明にしていたティム・ストーンが送り込んだという「傭兵達」(mercenaries)の噂に焦点が当てられていた。 最初の数か月間は、人民寺院の信者達は週6日、間に昼食の1時間を含んで朝6時30分から夜6時まで働いていた。1978年中頃にジム・ジョーンズの健康状態が悪化し、ジョーンズの妻がジョーンズタウン運営の主導権を握るようになると、週5日、1日8時間の労働と改められた。1日の仕事が終わった後、人民寺院の信者達はパビリオンで社会主義の授業を含む様々な活動を数時間行っていた。ジョーンズは、この信者達のスケジュールと北朝鮮の8時間の労働と8時間の勉強と行わせるシステムとを比較していた。同時にこれは、徐々に信者達を北朝鮮や毛沢東の中国を手本にした精巧なマインドコントロール、行動変容に適合させるためのものであった。ジョーンズは、ラジオ・モスクワやラジオ・ハバナ・キューバの番組を含む、ニュースやコメンタリーを読み聴きしており、中ソ対立の最中には中国よりもソ連側を支持していることで知られていた。 時事問題についての「議論」は多くの場合、ジョーンズが信者に対してニュースの含意や解釈を問い詰めたり、ジョーンズ自身が特定の出来事をどう「読む」べきかについて長々と支離滅裂な演説を行ったりという形になった。ソビエト連邦のドキュメンタリーに加えて、『パララックス・ビュー』、『ジャッカルの日』、『戒厳令』や『Z』といった政治的スリラー映画が繰り返し上映され、ジョーンズによって細かい分析がなされた。コミューンの会議の記録には、これらの映画を面白がらなかったり、ジョーンズが映画によって伝えようとしたメッセージを理解できなかった出席者が一人でもいた際、激怒し落胆するジョーンズの姿が残されている。映画や録画されたテレビ番組については、その内容が無害だったり表面上は政治的中立であったとしても、人民寺院の職員が同席して正しい「解釈」を示す場合にのみ視聴が許された。これは、西側諸国の映像に対しては常に資本主義プロパガンダ(と見られるもの)への痛烈な批判がなされ、そして共産主義国からもたらされる映像ではそのマルクス・レーニン主義的メッセージに焦点が当てられ、賞賛がなされていることを意味していた。 ジョーンズのニュース記事朗読の場面は録音されており、ジョーンズタウンの塔に設置されたスピーカーから、全ての信者達が聴くことが出来る様に、昼夜を問わず絶えず放送されていた。ジョーンズのニュース朗読は、常にアメリカ合衆国を「資本主義国家」で「帝国主義国家」という悪役として描写し、その一方で金日成や、ロバート・ムガベ、そしてヨシフ・スターリンといった「共産主義」指導者たちを肯定的に描写した。 ジョーンズタウンにおける外界との主な通信手段は短波放送であった。サンフランシスコとジョージタウンとの音声による通信の全ては、この放送をもって行われていた。この通信によって、人民寺院の秘匿されたビジネスのやり取りがなされていた。アメリカ合衆国連邦通信委員会は、技術的な違反を指摘しており、加えて商業的な目的でアマチュア無線の周波数を使用していることも記録されている。短波放送がジョーンズタウンにおける郵便以外の唯一の通信手段であったため、通信免許を剥奪するという連邦通信委員会の脅しは、人民寺院側ではジョーンズタウンの存在を脅かすものと捉えられた。 痩せた土地に建設されたことから、ジョーンズタウンでは完全な自給自足を行うことが難しく、小麦等の食料品を大量に輸入しなければならなかった。人民寺院の信者達は、ヤシの一種であるマニカリア・サッキフェラ(英語版)から作られた壁で仕切られた小さな共同住宅で生活していた。食生活は、伝えられることによれば、米、豆、青物野菜で構成され、たまに肉やソース、卵が添えられる程度のものであった。1978年末の時点で、推計2600万米ドルもの資産を持っていたにも関わらず、ジョーンズは、小さな共同住宅に居住していた。ただし、ジョーンズの住む住宅には、他の共同住宅よりも少ない人数しかいなかった。伝えられるところでは、ジョーンズの住宅には小さな冷蔵庫が備え付けられており、時々、卵、肉、果物、野菜、そしてソフトドリンクが収められていた。下痢や高熱の様な医療問題は、1978年2月には、ジョーンズタウンの半数に及んでいた。 ジョーンズタウンには、専用の刑務所も死刑制度もなかったが、重大な規律的問題があると判断された信者に対しては、様々な刑罰が科せられた。その中には、6×4×3フィート(1.8×1.2×0.9メートル)の合板製箱への監禁や、子供を井戸の底で一夜過ごさせ、時には逆さ吊りの状態にすることもあったという。「拷問の穴」や殴打は地元のガイアナ人の間で噂の題材となった。ジョーンズタウンから逃亡しようとした信者達に対しては、クロルプロマジン、チオペンタール、抱水クロラール、ペチジンやジアゼパムが、「長期治療室」で投与された。更には、武装した警備員が、ジョーンズタウンのルールを強いるために昼夜を問わずパトロールしていた。 子供たちは、通常は共同体へと移譲されており、時々、夜間の短時間だけ本当の両親と会うことを許された。ジョーンズは、大人と子供の双方から"父"(FatherまたはDad)と呼ばれていた。ジョーンズタウンには育児所が設置されており、そこでは33人の赤ん坊が生まれている。 月に6万5千ドルを超える福祉費が、アメリカ合衆国政府機関から人民寺院を通してジョーンズタウン住民に支払われていた。1978年、ジョージタウンのアメリカ合衆国在ガイアナ大使館の職員は、何度か機会を作って社会保障受給者に対してこの支給方法が意思に反していないかどうか意見聴取を行った。しかし意見聴取された75人の信者の中には、大使館による聴取で、「監禁されており、人民寺院を通した社会保障費の支給を強制的に同意させられた」とか、「ジョーンズタウンを離れたい」と証言したものはいなかった。
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