集団移住の打診
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:25 UTC 版)
その後石油の普及によって炭の需要が減ると営林署での仕事も激減した。若者がまず仕事を求めて町へ転出し子供もいなくなった。最多人口を記録した1960年からわずか10年後の1970年代後半には稲子地区の住人は8-9戸20人ほどになり危機的集落となった。その頃に七ヶ宿町役場から集団移転の話が出るようになった。七ヶ宿ダムの計画が1970年に知られるようになり、湖底に沈む民家のために七ヶ宿町の中心部に町営団地が造成され、稲子地区住民にも集団移転の打診があったのだとされる。しかし移転先の七ヶ宿町中心部でも商店街に店舗は少なく人口も年々減少して当時既に3200人余りとなっていたので、七ヶ宿町の団地に移住しても不便さは稲子地区と大差はないという意見が多く、誰も移住しなかった。1971年には、仙南保健所によって「移動保健所」が年に1-2回来るようになった。稲子公民館に内科、眼科、整形外科の医師と、栄養士が訪れ、住民の健康状態を診察した。
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