集団移住前のジョーンズタウン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:04 UTC 版)
「ジョーンズタウン」の記事における「集団移住前のジョーンズタウン」の解説
当初約500人の信者達がジョーンズタウンの開拓を開始し始めたが、人民寺院は更なる移住を推し進め、これをピープルズ・テンプル・アグリカルチュラル・プロジェクト(英語: Peoples Temple Agricultural Project、人民寺院農業計画)と名付けた。ジョーンズはジョーンズタウンを「社会主義者の楽園」、及びマスメディアの監視に対する「聖域」であると見做していた。1976年、ガイアナは1974年4月に協定を結んだガイアナの北西部の3000エーカーを超える土地の貸与を遂に承認した。その土地には、後にジョーンズタウンが築かれることになる。 1974年、ガイアナ政府高官は人民寺院が輸入する一定の物品について、「免税」を受ける権利を認めた。後にこの免税は、結果的に人民寺院の銃火器及び麻薬のガイアナへの密輸を、ガイアナの税関を通った上で安全に行うことが出来るように補助することとなった。ガイアナにやってきた比較的大規模な移住者は、地域住民に数で勝り、ガイアナ政府の小規模ながら厳格な移民受け入れ体制を圧倒した。ジョーンズは、ガイアナが人民寺院信者の大規模な移住を許可するという約束を取り付けるまでに至った。そのために、彼は人民寺院信者は「才能豊かで革新的」であると明言した上、500,000ドルが入っているとする封筒を見せつけたり、ガイアナに対して教団の資産のほとんどを投資するとまで述べた 。ガイアナの移民手続きは、人民寺院信者の離反者を抑制し、加えて人民寺院敵対者のビザ発給をも抑制していた。 ジョーンズは、ジョーンズタウン開拓について、博愛的な社会主義コミュニティの建設を理由として挙げており、「私は、我々が最も純粋な社会主義者であると信じている」と述べている。ジョーンズの妻のマルセリーヌは、ジョーンズタウンについて「社会主義、経済全体、人種、社会の平等のために人生を捧げた場所。私たちは、ここで個人というよりも人々のグループとして生活している」と述べている。ジョーンズは規範となるコミュニティの建造を望んでおり、バーナムについて「我々についてこの上なく熱心に称賛してくれた。我々の成し遂げようとしている、この素晴らしい事業、この計画、社会主義の規範をだ」と主張した。ジョーンズは、事前に許可を得ない限り、信者がジョーンズタウンを離れることを許さなかった。 人民寺院は、ガイアナの首都・ジョージタウンに事務所を設立し、バーナムらガイアナの高官達と幾度となく会議を行った。1976年、人民寺院信者のマイケル・プロークスがバーナムに対して、他の「アメリカ合衆国高官」と同等の位を与えるように要望した。ジョーンズはマーヴィン・M・ダイマリーと共にバーナム、ガイアナ外務大臣フレッド・ウィリスに面会するためにガイアナを訪れた。この際の会談で、ダイマリーは社会主義国家であるガイアナがアメリカ合衆国との関係を持続したいというメッセージをアメリカ合衆国国務省に伝えることに同意した。ダイマリーは、この会談でのバーナムへの書簡で、ジョーンズを「最も優れた人物の一人」と明言しており、加えてダイマリーはジョーンズタウンを訪れて「猛烈に感動した」とも述べている。 人民寺院信者達は、バーナムの人民国民会議(英語版)(PNC)に対する忠誠を何度となく強調していた。信者の1人、パウラ・アダムスは、ガイアナのアメリカ大使ローレンス・ボニー・マンと恋愛関係になっていた。ジョーンズは、ジョーンズタウンの大義のために全てを捧げる「広報女性」と呼ぶ女性信者達のことを自慢していた。ガイアナ首相バーナムの妻であるヴィオラ・バーナム(英語版)もまた人民寺院の強力な擁護者であった。 後にバーナムは、ガイアナは人民寺院がモスコーニ、モンデール、そしてロザリン・カーターの身分保障の下、活動することを認めたと明言した。同時にバーナムによれば、1977年9月のトリホス=カーター条約(英語版)調印に際して、ガイアナ代表のプトレミー・レイド(英語版)がワシントンD.C.を訪れた際、モンデールが「ジムはどうしてる?」とレイドに訪ねたという。これはモンデールがジョーンズの近況について、個人的興味を持っていることを示唆していた。
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