陸軍、士官学校時代
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「エドガー・アラン・ポー」の記事における「陸軍、士官学校時代」の解説
借金を抱え大学を辞めざるをえなくなったポーは、1827年3月に家出同然にリッチモンドの実家を出てボストンに向かった。ボストンに着いてからはアンリ・ル・ランネという偽名を使い、店員や新聞記者のアルバイトをして生活費を得ていたが、5月になってエドガー・A・ペリーという偽名を使い、また年齢も18歳を22歳と偽って、アメリカ合衆国陸軍に入隊した。最初の配属先はボストン港内にある砦で、給与は月5ドルであった。その一方で、ポーはボストンで自分の詩集を出版するための印刷業者を探し、同年7月に第一詩集『タマレーン、その他の詩集』を出版している。しかし「一ボストン人」の名で出版された40ページのこの詩集は、事実上何の反響も起こさなかった。 1827年11月、ポーの連隊はウォールタム号に乗ってサウスカロライナ州のムールリ砦に移動した。ポーは大砲の弾を準備する特別技術兵に昇進し、給与も二倍になった。1828年にはヴァージニア州にあるモンロー要塞に移り、ポーは翌年1月、下士官が到達できる最高の階級である特務曹長に昇進した。しかしポーは5年ある勤務期間の早期除隊を希望するようになり、指揮官のハワード中尉に自分の本名と年齢を明かした上で相談した。彼はポーに、義父のジョン・アランに連絡を取るよう指示し、ポーはアランに手紙を送ったが、この手紙は無視された。しかし1829年2月28日に義母のフランセスが死去し(ポーは電報を受けてリッチモンドに戻ったが、既に死去した後だった)、このことがアランの態度を和らげたのか、彼はようやくポーの希望通り除隊の上でウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学することを許可した。 ポーは4月に除隊したが、しかし士官学校の入学者は既に定員に達しており、入学は翌年の7月まで待たなければならなくなった。その間リッチモンドで生活する気になれなかったポーは、実兄ヘンリーが引き取られているボルティモアの父の実家を訪れることにした。祖父にあたる「ポー将軍」は既に死去しており、ここには祖母にあたるエリザベス・ポー、その娘のマライア・クレム、その子供のヘンリーとヴァージニア、そしてポーの実兄ウィリアムが住んでいたが、ポーの予想に反し、祖母の年金と叔母のわずかな収入を頼りに非常に貧しい生活をしていた。ポーはこの家での滞在を諦め、ボルティモアに安アパートを探すことに決めた。またこの間、ポーは第二詩集の出版を計画していたが、義父アランに頼んだ出版費用が送金されず企画倒れに終わった。しかしその後、長詩「アル・アーラーフ」が複数の雑誌に掲載されたことから世間の注目を集め、12月にボルティモアのハッチ・アンド・ダニング社から『アル・アーラーフ、タマレーン、および小詩集』と題した第二詩集を出版することができた。 1830年7月、ポーは入学試験を経てウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学した。しかしここでの生活はポーが想像したほど自由なものではなく、詩も小説も読むことを禁じられていた。この年の10月、義父ジョン・アランはルイザ・パターソンと再婚するが、この結婚と、さらに彼が別の恋人との間に婚外子をもうけていた問題でポーと口論になり、その結果義父により勘当が言い渡された。遺産相続の可能性がなくなったポーは士官学校を去ることを決意、1831年1月にアランへ手紙でその旨を伝えた後、意図的な怠業を行なって軍法会議にかけられ、放校処分となった。 2月にウェストポイントを出たポーは、3月中ごろまでニューヨークの安ホテルに滞在し、エラム・ブリス社を訪れた。エラム・ブリスはウェストポイントに出入りしていた業者で、ポーの評判を聞いて詩集の出版を引き受けたのである。出版費用はウェストポイント士官学校の生徒のカンパで賄われており、一人につき75セントずつ、合計で170ドルに達した(彼らはこの詩集を、ポーが以前書いて見せたような上官に対する風刺詩を集めたものと思っていたらしい)。ポーの第三詩集『ポー詩集』は「アル・アーラーフ」や「タマレーン」を再録していたほか、「ヘレンへ」「海の中の都市」「イスラフェル」などの新詩を含んでいたが、あまり好評は得られなかった。
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陸軍士官学校時代
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岩倉久米雄の在学中、陸軍士官学校の同期生全員の成績一覧表は直接生徒の親宛に郵送された。その中の明治18年後期の成績一覧表の中には久米雄の欄に63日病欠の記録と罰禁1回2日の記録がある。 63日病欠について 「九、はだし詣り或日の夕方、東京から電報が着くと父と母とは真青になって驚いたが翌日の夕方から父は毎夕うら寒い晩秋の土を踏んで洗足で何処へか出掛けた。私はその理由が分らず、屡々母にたづねたが、一向教えてはくれなかった。後で聞けば士官学校入校中の兄が急性肺炎で衛戍病院に入院中の所到底快復の見込みがないとの通知があったので、父が七日間、兄の氏神である神様に願掛けに出たのであった。兄の氏神というのは金沢の東北端浅野川の小橋付近に在る俗に「タイの天神」という社神である。此の神社は長い石段のある神社で、其の神社の下の畳屋のおかみさんは兄の乳母であったという事で、私も一、二度天神様のお祭りの日に乳母の家へ遊びに行った事を覚えている。川岸町の家から天神迄はかなりの道程があるのみならず、幾つもの坂を登り下りせねばならぬ。晩秋の北国を寒そうに、しおしおと杖を引きずりながら首うなだれて行く父の姿を想像すると今も涙が出る。兄は実に一家の柱石である。兄がなければ、私の家は水越のおっさんと同一の運命でなければならぬ事は分かりきった事である。この時の両親の腹の中は、今から考えると涙なきを得ない。母の死の早かった事も、父が兄の成功後数年ならずして死んだのも、これらの苦労の結果と思うより外はない。私の家は代々長生きの血統である。母が四十代、父が五十代で死んだのは先祖よりの異例である。」。 罰禁1回2日について 士官学校同期の福田雅太郎の伝記「福田大将伝」には「・・・入学の翌年18年の夏、自ら首謀者になって同盟休学を扇動し、同時に教官を排斥してその命に応ぜず、即ち校則を妄り軍紀を乱す者たるの故を以って、校長小澤武雄中将の怒りに触れ、遂に退校処分に附されることとなった。・・・(この後、猪狩生徒隊小隊長のとりなしで退校処分は取り消されるのだが、禁2回10日に処せられる。)」この年の成績表に罰を記されている生徒数は90名である。この頃、一般の中学校では同盟休学等の騒動が頻発したと記録にあるが、士官学校でも同様の事件があったことになる。
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陸軍士官学校時代
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昭和9年(1934年)3月末、陸軍士官学校予科(50期)に入校。航空兵科に進む。昭和11年(1936年)に浜松の飛行第7連隊の士官候補生となる。航空兵科50期の同期生歌を作詞作曲し、下志津陸軍飛行学校にて彼自身が歌いタクトをとって教えた。昭和13年(1938年)6月29日、陸軍士官学校航空分校を卒業し、少尉任官となる。
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