「黙れ」事件とは? わかりやすく解説

「黙れ」事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 19:15 UTC 版)

佐藤賢了」の記事における「「黙れ」事件」の解説

板野友造#黙れ事件」も参照 1936年昭和11年8月1日軍務局課員軍務国内班長)。1937年昭和12年3月砲兵中佐昇進8月航空兵中佐に任ぜられる。 1938年昭和13年3月3日、“黙れ事件”を起こす軍務国内班長として衆議院国家総動員法委員会において陸軍省説明員として出席国会審議佐藤法案説明し法案精神自身信念などを長時間演説した事に対し、他の委員佐藤陸軍士官学校時代教官でもあった立憲政友会宮脇長吉など)より「やめさせろ」「討論ではない」などの野次飛んだが、これを「黙れ!」と一喝政府説明に過ぎない人物の国会議員対す発言として、板野友造らによって問題視されるも、佐藤席を蹴って退場したため、委員会紛糾し散会となったその後杉山元陸軍大臣12期)により本件に関する陳謝なされたが、佐藤対し特に処分は下らなかった。作家半藤一利によれば戦後インタビュー佐藤は「国防任ずる者は、たえず強靱備えのない平和というものはないと考えておる。そんな備えなき平和なんてもんは幻想にすぎん(汝平和を欲さば、戦への備えをせよ)。その備え固めるためにはあの総動員法が必要であったのだ」と語ったという。 1940年昭和15年2月10日南支那方面軍参謀副長就任松岡アンリ協定に基づく北部仏印進駐進めるが、現地における細目協定成立にもかかわらず9月23日日本軍越境し、仏印軍との衝突に至る。これは富永恭次参謀本部第1部長(25期)との謀議よるものであり、国際的な非難浴び富永少将東部軍司令部附に左遷される。この時、仏印国境監視団長として仏印側と折衝担当した西原一策少将25期)が、陸軍次官参謀次長海軍次官軍令部次長あてに発した統帥レテ信ヲ中外ニ失フ」という電文は有名。西原機関にいた小池龍二大佐31期)は「彼(佐藤)とは二日二晩徹夜談判したことがありますが、こちらの言い分にも耳を傾けるし、論敵ながら男らしい、さっぱりとした人でしたよ。その辺は、職権をかさに着た陰険な富永少将とは両人ともやる事は強引ですが、ずいぶん感じ違いました」と述べている。佐藤の上司で謀議関与しなかった安藤利吉南支那方面軍司令官16期)も責め負って予備役編入された。

※この「「黙れ」事件」の解説は、「佐藤賢了」の解説の一部です。
「「黙れ」事件」を含む「佐藤賢了」の記事については、「佐藤賢了」の概要を参照ください。

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