出生から第8師団長時代まで
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「真崎甚三郎」の記事における「出生から第8師団長時代まで」の解説
1876年(明治9年)11月27日、中農の真崎要七の長男として佐賀県に生まれた。 佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年12月に卒業後、士官候補生を経て1896年9月に陸軍士官学校に入学した。 陸士第9期卒後に陸軍大学校に入学したが日露戦争が発生したため歩兵第46連隊中隊長として従軍した。 1907年に陸大第19期を恩賜の軍刀を拝領し卒業した。首席卒業の荒木貞夫の他、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也などと同期だった。 第一次世界大戦中は久留米俘虜収容所長も務めた。ちなみに、2006年に公開された映画『バルトの楽園』では板東英二が久留米俘虜収容所長を演じているが、これは真崎甚三郎ではない。真崎が収容所長を務めたのは、1915年から1916年の1年間である。もちろん、真崎は収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内での音楽などを許可したのは事実で、衛戍司令官柴勝三郎中将から批判されると、「ドイツ人にとっての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なものであります」と答え、了解を求めた。息子の真崎秀樹によると「父に連れられて俘虜の素人芝居をみたり、クリスマスパーティーに出たことを覚えている」とのことである。 陸軍大佐、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、陸軍少将、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、陸軍中将、第8師団長を歴任。 陸軍の枢要である軍務局軍事課長を真崎はわずか1年しか務めなかった。この件について真崎は後に息子に対して、陸軍機密費の不正蓄積についての疑問を持ったため、機密費の適正な使用と管理について意見を具申したところ、近衛歩兵第1連隊に転出させられたと述べている。この当時、軍の機密費を取り扱っていたのは田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。田中義一は政界入りする際にシベリア出兵時の機密費を流用して立憲政友会への持参金にしたとの風説があり国会でも追及されている。 本科長、教授部長兼幹事を経て校長をつとめた4年間の陸軍士官学校時代に、精神主義・日本主義に重点を置いた教育に努めた。この時期の生徒には安藤輝三、磯部浅一、渋川善助らがいる。
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