出生から盛岡中学校時代までとは? わかりやすく解説

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出生から盛岡中学校時代まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 11:14 UTC 版)

石川啄木」の記事における「出生から盛岡中学校時代まで」の解説

岩手県南岩手郡日戸(ひのと)現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツ長男として生まれる。出生当時、父の一禎が僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかったため、母の私生児として届けられ、母の姓である工藤一(くどうはじめ)が本名だった。戸籍によると1886年明治19年2月20日誕生だが、啄木詩稿ノート黄草集』に「明治十九二月二十日生(十八年旧九月二十日)」と記した括弧書き天保暦日付とみてこれを太陽暦換算した1885年明治18年10月27日生まれたとする見解もある。 二人の姉(サタトラ)と妹(ミツ通称光子)がいた。 1887年明治20年)春、1歳時に、父が渋民村現在の盛岡市渋民)にある宝徳寺住職転任したのにともなって一家渋民村移住する。この移住は、住職急逝し不在となったのを知った一禎が、交通などの便のよい宝徳寺希望して檀家仏門の師である葛原対月(妻・カツの兄)に働きかけ(対月を通して本寺報恩寺住職にも)、実現したのだった幼少期啄木は体が非常に弱く、一禎の残した和歌稿本に「息の二、三歳のころ病弱に月一回は必らず(原文ママ薬用せしめ侍るに」と記されている。一方一家でただ一人男児として母は啄木溺愛し、父も啄木用の家財道具に「石川一所有」と記入するほどで、こうした環境が「自負心の強い性格作りあげた」と岩城之徳指摘している。 1891年明治24年)、学齢より1歳早く渋民尋常小学校(現・盛岡市渋民小学校)に入学するその事情について、啄木小説二筋の血』で「主人公遊び仲間年上の子供が進学して寂しかったために父にねだって校長に頼むと許可された」とある内容が、啄木自身事実とみて差し支えない岩城之徳記している。前記通り当時啄木は母の戸籍だったが、進学するとそれでは都合が悪いという理由で、小学2年生だった1892年明治25年9月に一禎はカツ正式に夫婦となり、それに伴って啄木石川姓(戸籍上は養子扱い)となる。学齢より1歳下にもかかわらず1895年明治28年)の卒業当時尋常小学校4年制だった)時には首席成績だったと伝えられる尋常小学校卒業すると、盛岡市盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)に入学し市内母方伯父元に寄寓する盛岡高小3年生まで学ぶとともに(ただし2年生への進級前後早春)に寄宿先を同じ盛岡市内の従姉母の姉の娘)宅に変えている)、3年生時には旧制中学校受験のための学習塾にも通った1898年明治31年4月岩手県盛岡尋常中学校啄木4年生時の1901年4月岩手県立盛岡中学校改名現・岩手県盛岡第一高等学校)に入学する入学試験成績合格128人中10番だった。 中学3年生の頃は、周囲海軍志望熱に同調して先輩及川古志郎(後に海軍大臣など)に兄事していた。3年生1900年明治33年4月創刊された『明星』は、浪漫主義詩歌作品全国多く追従者を生み、盛岡中学では先輩金田一京助が「花明」の筆名新詩社(『明星』の発行元)の同人となり、『明星』にも短歌掲載された。そうした状況で、やはり文学好きな及川感化受けて関心芽生え啄木短歌志望知った及川は「歌をやるなら」と金田一を紹介する啄木金田一から『明星』の全号を借りて読み3年生三学期だった1901年明治34年3月頃に新詩社社友になった推測されている。また、のちに妻となる堀合節子とは、1899年明治32年)に知り合い3年生の頃には交際持っていたとされている。一方3年生末期1901年3月に、教員間の紛争地元出身者他地域から赴任した教員冷遇した)に対す生徒側の不満から起きたストライキ3年生4年生)に参加したストライキ結果直後異動教員顔ぶれ一変した啄木ストライキ首謀者ではなかったとされるが、その後異動した教員惜し雰囲気出たことや、本来の首謀者卒業退学学校去ったため、啄木がその責任者一人擬せられ、後述する退学時に不利に働くことになった4年生1901年には校内文芸活動活発化させ、翌年にかけて『三日月』『爾伎多麻にぎたま)』『高調』といった回覧雑誌主宰編集した短歌の会「白羊会」を結成したのもこの年である(メンバー先輩野村長一(後の野村胡堂)や後輩岡山儀七がいた)。12月3日から翌1902年明治35年1月1日にかけて、下級生メンバー3人とともに白羊詠草」として岩手日報に7回にわたって短歌発表し啄木作品も「翠江」の筆名掲載される。これが初め活字となった啄木短歌だった。さらに岩手毎日新聞にも1901年12月短歌10首を発表したほか、1902年1月には「麦羊子」の筆名蒲原有明最初詩集草わかば』を評した文芸時評岩手日報発表した。こちらも初め活字になった評論で、そのあと3月5 - 6月に「白蘋(はくひん)生」の筆名文芸時評連載寄稿した。 この時期啄木は『明星』に掲載され与謝野晶子短歌傾倒し自作短歌晶子模倣した作風だった。 5年生最終学年)の1902年明治35年)、一学期期末試験不正行為特待生同級生に、代数試験答案2枚作ってもらい、その1同級生途中退出する際に入手しようとしたとされる)を働いたとして、答案無効保証人召喚という処分下された啄木同年3月4年生学年末試験でも不正を働いたとして4月譴責処分受けていた。加えて授業欠席増え5年生学期欠席時間出席の約2倍)、試験無効合わせて落第必至という状況だった。岩城之徳は、これらの事情から啄木学校側から退学もしくは転校勧告受けていたのではないか推測している。かくて啄木は、10月27日中学退学した岩城之徳退学理由について、「(堀合節子との早熟な恋愛により生じた学校生活ゆきづまり」、さらに経済的事情から上級学校への進学見込みがなく文学の職に就くために学業放棄したことを、原因として指摘している。この退学前、『明星10月号に同誌では初めて「白蘋」の筆名短歌掲載された。

※この「出生から盛岡中学校時代まで」の解説は、「石川啄木」の解説の一部です。
「出生から盛岡中学校時代まで」を含む「石川啄木」の記事については、「石川啄木」の概要を参照ください。

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