出生から現在までの歩み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/24 08:35 UTC 版)
「ボリス・シリュルニク」の記事における「出生から現在までの歩み」の解説
1930年代にフランスに移民したユダヤ系の両親のもとに生まれる。父はウクライナ生まれで、抗ナチス・レジスタンス活動に関わっていた。 ヴィシー政権が1942年から実施したユダヤ人一斉検挙の際に逮捕された両親は、アウシュビッツ強制収容所に送られて命を絶った。ちなみに、フランスでは、7万6千人のユダヤ系フランス人(そのうち、子供は1万1400人)が犠牲になった。1942年7月、逮捕される危険を察知した母親は、その前日に5歳のボリス・シリュルニクを孤児院に預ける。その後、孤児院や匿ってくれた人々の家を転々するが、1944年1月、6歳のとき、ボルドーで実施されたユダヤ人一斉検挙の際にフランスの警察に連行される。しかし、一時的に収容されたボルドーのシナゴーグから脱出し、強制収容所送りを免れる。終戦までは、ユダヤ系であることを隠すために偽名を使い、ボルドーから70キロメートルほど内陸にあるポンドラという小さな村の農場で、住み込みで働く。戦後、孤児院を転々とした末、パリで暮らす母親の妹ドラに引き取られ、高校の途中まで一緒に暮らす。11歳のとき、戦中の強烈な体験から「人間の心を理解したい」と思い立ち、精神科医になると決意し、苦学の末、パリ大学医学部に進学する。フランスでは、心理学で用いるレジリエンス(へこたれない精神)という概念を一般に紹介したことでも有名である。 1980年代まで、戦時中の自身の経験を公に語ることはなかった。警察からの脱出劇を語っても周囲には信じてもらえず、生い立ちを封じ込めるようになったと、後年インタビューで語っている。1980年代に入りモーリス・パポンの裁判が行われるようになると、徐々に自身の経験を語るようになった。パポン裁判に関してシリュルニクは、「裁判には居心地の悪さもありました。裁判は罪を犯した人間を裁くものです。あの時代、罪を犯したのは(国の)システムでした。(ヴィシー政権下で)地方の役人だったパポン氏は、体制に寄り添って生きてきた。ナチスに協力する病んだフランスのシステムに絡め取られていたのです」と語っている。 2007年、サルコジ大統領の要請によって発足された、ジャック・アタリを委員長とする通称「アタリ政策委員会」のメンバーに選出され、政策提言に関与する。2014年、フランス政府からレジオンドヌール勲章のオフィシエを受勲する。2015年1月に起きたシャルリー・エブド襲撃事件および11月にパリで発生したテロ事件後、フランスのテレビTV7に出演し、この実行犯の心理や社会的背景を説明し、フランス国内で大きな反響を呼ぶ。現在、執筆の傍ら、世界中を巡り、人道支援、講演、啓発活動などを行っている。
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