出生から立太子まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:07 UTC 版)
1542年10月15日、アクバルは西インドのシンド地方、ウマルコートのウマルコート城で、ムガル帝国の第2代君主フマーユーンとその妃ハミーダ・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた。誕生名はバドルッディーン・ムハンマド・アクバル(Badruddin:満月の意、満月の夜に誕生したため。アクバルの名は外祖父のシャイフ・アクバル・アリー・ジャーミーにちなむ)。 皇子アクバルの幼少期は多難であった。アクバルは父フマーユーンがパシュトゥーン人(アフガン人)でスール朝の創始者シェール・シャーに北インドの帝位を追われて流浪している時に誕生した。また、フマーユーンは帝国を再統一するため、弟カームラーン、アスカリー、ヒンダールと争わねばならず、イランを支配していたサファヴィー朝の庇護を受けることにした。 1543年11月、フマーユーンはサファヴィー朝に亡命するためイスファハーンに向かい、アクバルはカンダハールを統治していた叔父アスカリーのもとに人質に出された。 1544年から1545年の冬、アクバルはカンダハールのアスカリーのもとからカーブルを統治していた叔父カームラーンのもとに移された。 その後、1545年11月15日、フマーユーンがアスカリーを打倒してカーブルに入城すると、アクバルは父と再会した。だが、翌1546年11月にフマーユーンがカーブルを追放されると、アクバルはふたたびカームラーンの人質となった。なお、フマーユーンによるカーブル奪還が行われているさなか、同年10月8日にカームラーンの命令によりカーブル城の城壁に晒し出され、包囲軍の砲撃に会う危機に陥った。このとき、アクバルの姿を見た砲兵隊指揮官のとっさの判断により砲撃が中止され、アクバルは難を免れた。 1547年4月27日、アクバルは叔父カームラーンがカーブルから逃げたのち、父フマーユーンと合流した。また、その年の11月にアクバルは初めて家庭教師の指導を受けた。 だが、1550年前半にカームラーンがカーブルに帰還してくると、アクバルはまたしてもその人質になった。同年後半、フマーユーンがカーブルを奪還し、アクバルは再び父と合流した。 1551年、アクバルは父フマーユーンによりガズニー知事に任命され、翌1555年7月に父がデリーを奪還すると、11月にパンジャーブ太守となった。なお、この間6月に後継者に指名され、スール朝との戦いで戦功のあったバイラム・ハーンが後見人となった。
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