出生から筒井氏臣従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:58 UTC 版)
大和国柳生庄(奈良市柳生町)を領する柳生家厳の嫡男として生まれる。生年について、柳生家累代の家譜『玉栄拾遺』で 大永7年(1527年)とあり、『寛政重修諸家譜』もそれに準ずる。一方で宗厳自身の記述として、慶長11年(1606年)2月に発行した目録で「生年七拾八歳」と記しており、そこから逆算すると享禄2年(1529年)となる。 当時の大和は争乱が続き、天文13年(1544年)宗厳15歳の時に、柳生家の本拠地である柳生城は筒井順昭の攻撃を受けた。同時代の日記『多聞院日記』によると、この時の筒井側は総勢一万にものぼったといい、3日に渡る攻撃の末に柳生城は落城した。 父・家厳は筒井氏に臣従して家名存続を図り、筒井氏から所領を安堵する書状を受けた。宗厳も筒井氏の家臣として戦い、順昭の跡を継いだ筒井順慶から家厳宛ての書状で「新次郎殿(宗厳)が吐山(奈良市)で行われた合戦で比類無き名誉を果たして負傷した」と賞されている。 筒井氏に仕える武将として活動する一方で若年時から剣術を好み、諸流派を学んだ。宗厳が修めた流派については、江戸柳生家の家譜『玉栄拾遺』で戸田一刀斎に 富田流を学んで奥義「獅子の洞入」を修めたとあるほか、尾張柳生三代・柳生厳延が書いた『柳生新陰流縁起』では神取新十郎に新当流を学んで五畿内外で名を知られていたとある。
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