出生から美術学校・漫画記者時代とは? わかりやすく解説

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出生から美術学校・漫画記者時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:34 UTC 版)

近藤浩一路」の記事における「出生から美術学校・漫画記者時代」の解説

山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家江戸時代南部宿本陣務めた家柄で、父は浩一路の幼少時病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長務めたほか地元私塾営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕過ごし富士川小学校経て1902年明治35年)に韮山中学静岡県韮山高校)を卒業する上京する祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿俳句など文芸活動熱中し1904年明治37年)には画家志して洋画家和田英作白馬会研究所所属し同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する在学中には白馬会出展しており、この頃画風には外光派影響見られる同級生影響水墨画はじめたほか、文芸活動行っている。また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる。 美術学校では一年落第し1910年明治43年)に卒業する卒業制作連作五十三駅」。卒業後は白馬会文展への出展行い入選もしており、京都女子絵画指導行っているほか、藤田らと水墨画漫画展覧会主催している。この頃には結婚もしていたため、1915年大正4年)に読売新聞社入社して漫画記者となり、政治漫画挿絵担当する漫画記者として美術学校時代同級生朝日新聞記者であった岡本一平双璧で「一平浩一時代」と評され漫画記者団結のため結成され東京漫画会へも所属し作品出展しているほか、赤甕会や珊瑚会などの活動にも参加し日本画家として注目される

※この「出生から美術学校・漫画記者時代」の解説は、「近藤浩一路」の解説の一部です。
「出生から美術学校・漫画記者時代」を含む「近藤浩一路」の記事については、「近藤浩一路」の概要を参照ください。

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