出生から終戦まで
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新潟県刈羽郡鵜川村生まれ。群馬県高崎市で育つ。1913年3月に県立高崎中学校、1917年7月に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。在学中に吉野作造の影響を受け東大新人会に参加、政治学の研究を志す。特に雑誌『社会思想』の同人であった河合栄治郎[要出典]のすすめから、イギリス社会主義の研究をはじめ、その後の民主社会主義理論家としての素地を作る。 1920年7月大学を卒業と同時に法学部助手に採用、1922年同助教授を経て、1928年教授に任官。1927年からは新設された行政学講座を担当する。1939年4月に行なわれた東大経済学部の人事処分(平賀粛学)をめぐり、親交のあった河合栄治郎が休職処分とされたことに殉ずる形で抗議の辞任を行い、大学在職時から続けていた雑誌等での言論活動に主軸を移す。 政治的には二・二六事件に際して『帝国大学新聞』に軍部批判の論説を掲載するなど、軍部に対して批判的な姿勢を見せたが、一方で社会大衆党などの右派無産政党や近衛文麿に接近し、1934年5月、当時貴族院議長の近衛が親善特使として米国に派遣された際にも同行している。また、1930年代の政党政治の行き詰まりや軍部台頭のなかで国内政治体制の刷新のため「立憲独裁」を提唱して近衛のブレーン組織である昭和研究会設立構想に参加、日中戦争下の1938年には『改造』に掲載した論説により「東亜協同体」をめぐる論争の口火を切った。 1942年4月の翼賛選挙では近衛や井上房一郎の勧めを受けて推薦候補として群馬二区に立候補、衆議院議員に当選する(任期途中で翼賛政治会を脱会し、翼壮議員同志会に参加)。また、戦時期にはフィリピンの軍政監部顧問であった村田省蔵の指名により、大学以来の旧友・東畑精一とともに占領地の調査に参加した。
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出生から終戦まで
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1903年(明治36年)1月2日、福岡県糟屋郡和白村(現・福岡市東区和白)の農家、太田家の三女(9人兄弟の第7子)として誕生。田中の生まれた1903年はライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功した年で、翌1904年(明治37年)に日露戦争が開戦している。 1915年(大正4年)に和白尋常高等小学校(現福岡市立和白小学校)を卒業後、12歳で子守りとして奉公に出る。1922年(大正11年)1月6日、19歳のときに1歳年上(同学年)のいとこの田中英男と結婚。家族で「田中餅屋」という店を西戸崎で営み、餅やぜんざい、うどんなどの店頭販売を行っていた。加えて、松葉(燃料)・砂利・縄の販売、船舶による運送、店舗(乾物屋)の賃貸など、経営は多岐にわたっていた。戦時中は、博多海軍航空隊内にうどん店を出店した。 英男との間に4人の子(2男2女)を授かった。長女の悦子が1929年1月23日に生後1カ月で夭折した後、自身の姉である堺ハナの次女のハツエ(当時7歳)を養女として引き取った。更に戦時中は早世した英男の妹夫婦の子供3人も預かって育てていたが、養女ハツエは1945年(昭和20年)2月19日に23歳で死去した。戦後に次女の和子を授かったが、1947年(昭和22年)9月26日に1年3カ月で死去した。 夫の英男は、1923年(大正12年)1月に徴兵検査を受け、甲種合格となり入営したものの、同年10月に病気により除隊した。1937年(昭和12年)に日中戦争に召集され、1939年(昭和14年)1月6日に帰還。後に再召集され、ガダルカナル島の戦いで飢餓に陥るも、転進命令によって命を拾った。一方、長男の信男は1942年に水戸陸軍飛行学校に入学し、翌年から朝鮮と満州に出征した。終戦後はウランバートルに抑留されたものの、比較的恵まれた捕虜生活を送り、1947年(昭和22年)11月5日に帰還した。
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