真言密教の確立とは? わかりやすく解説

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真言密教の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:41 UTC 版)

空海」の記事における「真言密教の確立」の解説

大同4年809年)、空海はまず和泉国槇尾山寺滞在し7月太政官符待って入京和気氏私寺であった高雄山寺入った。この空海入京には、最澄尽力支援があった。その後2人10年交流関係持った密教分野限って最澄空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗掲げ最澄と密厳一乗標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年816年初頭頃に訣別する。2人訣別に関しては、後述最澄からの理趣釈経借覧要請空海拒絶したことや、最澄弟子泰範空海の下へ走った問題もある。 大同5年810年)、薬子の変起こったため、嵯峨天皇につき鎮護国家のための大祈祷行った弘仁2年811年)から弘仁3年812年)にかけて、乙訓寺京都府長岡京市)の別当務めた弘仁3年11月15日高雄山寺にて金剛界結縁灌頂開壇した。さらに12月14日には胎蔵灌頂開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄光定泰範のほか190名にのぼった弘仁4年813年11月23日最澄空海に「理趣釈経」の借覧申し入れたが、密教真髄口伝による実践修行にあり、文章修行二の次という理由空海拒否した弘仁6年815年)春、会津徳一菩薩下野の広智禅師菩薩などの東国有力僧侶元へ弟子康守らを派遣し密教経典書写依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進おこなったこの頃弁顕密二教論』を著している。 弘仁7年816年6月19日修禅道場として高野山下賜請い7月8日には、高野山下賜する旨勅許賜る。翌弘仁8年817年)、泰範実恵弟子派遣して高野山開創着手し弘仁9年818年11月には、空海自身勅許後はじめて高野山登り翌年まで滞在した弘仁10年819年春に七里四方結界を結び、伽藍建立着手したこの頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続け執筆した弘仁10年7月嵯峨天皇勅命によって宮中中務省居住した勅命理由不詳であるが、官人文章作成能力の向上という天皇依頼応えるめだったとみられている。 弘仁12年821年)、満濃池まんのういけ)の改修指揮してアーチ堤防など当時最新工法駆使し工事成功導いた弘仁13年822年)、太政官符により東大寺灌頂道場真言院建立この年平城上皇灌頂授けた弘仁14年823年正月太政官符により東寺賜り真言密教道場とした。 天長元年824年2月、勅により神泉苑祈雨法修した3月には少僧都任命され僧綱入り6月に造東寺別当9月には高雄山寺定額寺となり、真言14名を置き、毎年年分度者一名許可となった天長5年828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに東寺の東にあった藤原三守私邸譲り受け私立教育施設綜芸種智院」を開設当時教育は、貴族郡司の子弟を対象にするなど、一部人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院庶民にも教育門戸を開いた学校であった綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教道教などあらゆる思想学芸網羅する総合的教育機関でもある。『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈定んで道にあり」と、学校存続運営携わる人の命運左右される不安定なのであることを認めたうえで、「一人恩を降し三公力をあわせ、諸氏英貴諸宗大徳我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇大臣諸侯仏教諸宗支持協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針示している。ただし、実現はしなかったらしく、綜芸種智院空海入滅10年ほどで廃絶した。はるか後年になって種智院大学および高野山大学がその流れ受け継いでいる。 天長6年829年)、白雉元年650年)に役行者創建した京都志明院再興した天長7年830年)、淳和天皇の勅に答え秘密曼荼羅十住心論』十巻を著し、後に本書要約した秘蔵宝鑰三巻著した天長8年831年5月病を得て、6月大僧都辞する上表するが、天皇慰留された。 天長9年832年8月22日高野山において最初万燈万華会が修された。空海は、願文に「虚空盡き衆生盡き涅槃盡きなば、我が願い盡きなん」と想い表している。秋より高野山隠棲し、穀物断ち禅定を好む日々に入る。 承和元年834年2月東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた12月19日毎年正月宮中において真言修法行いたい旨を奏上。同29日太政官符許可され、同24日太政官符では東寺三綱を置くことが許されている。 承和2年835年)、1月8日より宮中後七日御修法修す1月22日には、真言宗年分度者3人を申請して許可されている。2月30日金剛峯寺定額寺となった3月15日高野山弟子達に遺告与え3月21日午前4時入定した。享年62歳。 伝真済撰『空海僧都伝』によると死因病死で、『続日本後紀』によると遺体荼毘付されたとある。しかし後代には、入定たとする文献現れる。 「#入定に関する諸説」を参照 天長8年病を得以降空海は、文字通り生命がけで真言密教基盤強化とその存続のために尽力した。とくに承和元年12月から入滅までの3か月間は、後七日御修法申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者獲得し金剛峯寺定額寺とするなど、密度の濃い活動行った。すべてをやり終えた後に入定した。

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