発覚まで
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「カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー」の記事における「発覚まで」の解説
1944年10月にアムステルダムからハーグへ向かっている途中に交通事故に巻き込まれて負傷し、アムステルダムやフローニンゲンで病院生活を送り、1945年4月にウィーンへ帰った。 ちなみにジルバーバウアーが逮捕したユダヤ人8人は強制収容所へ送られ、オットー・フランク以外は全員が終戦を迎えることなく死亡している(支援メンバーで逮捕されたクーフレルとクレイマンはともに生存)。 ドイツ敗戦後に14か月ほど服役している。ジルバーバウアーの証言によると「コミュニストどもが1938年に私から虐待を受けたと訴えたため」という。 釈放後、10年ほど西ドイツ連邦情報局(BND)のスパイとして西ドイツやオーストリア内のネオ・ナチ組織や共産主義グループに潜入し、身分秘匿捜査をしていた。 1954年からウィーンの刑事警察(Kriminalpolizei)で警察官に復職し、その後、巡査部長(Inspektor)に昇進した。
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発覚まで
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2リーグ制に移行した1950年、阪神の監督には戦時中にチームを離れていた松木謙治郎が復帰して就任した(当初は選手兼任)。松木はプロ野球再編問題の際に主力選手の移籍で弱体化したチームの再建にあたった。松木に対する選手の信望は高かったが、1954年オフに松木は監督を辞任した。その際松木は後任に助監督だった藤村富美男を推薦し、世間からは藤村か御園生崇男のいずれかに落ち着くとみられていた。しかし、球団代表の田中義一はセ・リーグ会長の鈴木龍二を通じて藤本定義の招聘を目指すも失敗。オーナーの野田誠三自らが人選に動き、岸一郎を後任監督に据えた。だが、岸は阪神はおろかプロ野球界での経験がまったくなかった。加えて、岸はベテランも若手も分け隔てなく起用する方針を打ち出し、藤村や真田重蔵らベテランは激しく反発した。1955年シーズン途中の5月下旬に岸は病気療養を名目に休養。藤村が選手兼任で代理監督に就任し、チームは成績を3位で終える。 藤村は1956年に選手兼任のまま正式に監督に就任。このシーズンは7月から8月にかけて勝ち進み、8月11日には読売ジャイアンツ(巨人)に5ゲーム差を付ける首位に立った。藤村の後年の回想では、この時期フロントから「選手権の相手チームを研究させようか」と打診を受けるくらいであったが、チーム内では不協和音が生じており、藤村は「ちょっと待ってください。実はチームの中がこういう風な状態になっている」と述べるほどであったという。ほどなくして負けが込むようになり、巨人に首位を明け渡した。 同じ頃、マネージャー兼スカウトであった青木一三は野田オーナーに対して辞意を訴える。田中義一球団代表と、阪神電気鉄道本社から出向した下林良行常務の間に意見の違いが多く、思うように働けないという理由であった。青木によると、阪神甲子園球場でのナイターの際に、野田にこのことを訴えたが、その場で野田の説得を受けて辞表を取り下げた。しかし、青木はこの際、待遇面で選手に不満が生じており、「このまま放っておいたら、暮れに事件が起きますよ」と述べたという。青木の言う「待遇面の問題」とは、青木が安い俸給で獲得した小山正明・吉田義男・三宅秀史らの若手選手が、主力となっても一向に待遇がよくならないことを指していた。契約更改の席では藤村の俸給を基準に他の選手の金額を決定していた上、藤村自身が球団の提示した金額に異を唱えなかったという事情もあった。青木は、阪神電鉄本社の一部の意向を押しつけている下林常務に原因があると考えていたが、選手が球団常務の辞任を求めるのは筋が通らないため、藤村に矛先を向けることにしたという。 結局このシーズンは巨人から4.5ゲーム差の2位という結果に終わる。 シーズン終了後の11月2日、大映スターズでコーチから監督への就任が決まった松木が来阪したのを機に、選手有志が松木の監督就任を祝うという名目で会合を開いた。このとき集まった13人を中核として「藤村監督退陣要求書」が作成されることとなる。これについて青木一三は著書で「絶対チームがクビにできない13人(原文ママ)を集めた」と記している。青木によれば、このとき「排斥派」に加わったのは、金田正泰につながっていたメンバー(徳網茂・田宮謙次郎・白坂長栄ら)、青木が獲得したメンバー(吉田義男・小山正明・三宅秀史ら)、真田重蔵を中心としたメンバー(石垣一夫ら)のグループに分かれていたが、そのいずれもが元は松木に信を寄せる「松木派」であったという。南萬満はこの動きに松木がどの程度関係したかについて「いろいろな説がある」とし、松木が「クビになったらオレが採ってやる」と金田正泰に言ったという藤村の証言や、「真田がクビになったら大映の永田オーナー夫人に頼んでやる」と言ったという大井廣介の記述などをふまえながらも、「酒の上での大言壮語だったようでもある」としている。この当時、野球協約がすでに制定されており、2リーグ分裂当時のような選手の「引き抜き」は事実上不可能になっていた。大井廣介は、真田の再契約拒絶の決定後に松木が「スポーツニッポンで真田を採ってくれんだろうか」と言い出したと証言している。ただ、青木一三はパ・リーグ総裁でもあった永田に、「阪神の選手たちをパ・リーグで引き受けてくれるなら私が責任を持ってバラまきます」と「煽動した」と自著に記している。 「裏で糸を引いていた」と認める青木の証言に基づけば、この「排斥事件」は選手の待遇改善闘争が本質であったということになる。これについて、13人の中心メンバーであったとされる金田正泰は1980年代のインタビューで、賃金闘争であることも青木が首謀者であることも否定し、「松木と青木の大映移籍が関係している」「あえていえば“長”に対する問題であった」「裏面ではいろいろ話があったが、選手はある意味では純粋で、会社をやっつけてどうするというような一つの問題は持ってなかったと思う」と述べている。『阪神タイガース 昭和のあゆみ』では、「せんじつめれば『明るいチームで優勝を遂げたい』という選手たちの素朴な発想によるものである」としている(同書P259)。一方、当時若手選手として「排斥派」の一人だった吉田義男は事件について、「あれは何だったのかと、今もって理解できない」「何を球団と藤村さんに要求するのか、(引用者注:若手の)私たちはいまひとつ理解できなかった」と回想している。吉田は『真虎伝』でも同様の証言をしているほか、小山正明も「いまはすまんことをしたと思っている。(中略)わけもわからずに、排斥グループの中に入って動いとった。何も監督に文句はなかったのに…」と述べている。 なお、背景に藤村のプレーや練習での態度があったといわれる点について、1990年代に関係者からの聞き取りと資料の再調査をおこなった南萬満の『真虎伝』では、「いいときしか代打に出ないという批判はあった」という真田重蔵や大崎三男の証言 と、田宮謙次郎が排斥事件中に発表した声明文で「選手同士でやったヒットエンドランの成功を、あたかも藤村が出したサインだったような話をゲーム後にした」という件 が紹介されている。また、排斥事件とは直接関係しない形で藤村がスタンドプレーだと反感を持つ選手がいたという本堂保弥の証言 の紹介と、「打撃練習で一人長々と打つ」と評判が悪かったという記述もある。南はそれらも踏まえた上で、全体としてはそれよりは選手とのコミュニケーションの不足に大きな理由を見ている。「巨人の水原茂監督もリードされた試合中にいらだちを見せることがあったが選手がそれをなだめることが多かった」という話と比較し、阪神の場合は「監督も選手も若く、わがままだった、経験不足だったし、チームリーダーになって、監督と選手のパイプ役をやりうる選手がいなかったということに尽きるのではないだろうか」と結論づけている。 青木一三は、この選手たちの集まりをデイリースポーツと報知新聞にリークし、その翌日に両紙に掲載されたという。 デイリースポーツ(関西本社版)は11月11日付の1面で「揺ぐ阪神の屋台骨(原文ママ) 藤村監督の退陣要求 主軸選手、松木氏の復帰望む」という見出しで報じた。同社の社史には、11月9日夜に甲東園の旅館で開かれた選手の会合を取材して掲載を決めたという当時の担当記者の証言が掲載されている。
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