発覚と断罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 06:14 UTC 版)
翌3年5月(574年)に、高句麗の使者が越の海岸に停泊した。そして7月に入京して、「私たちの船が先に到着して、大島首磐日らを厚い礼をもって処遇しました。しかし、大使たちがまだ戻ってきていません。そこで、磐日とともに使いを参上させて、大使たちがかえってこない事情を尋ねにきました」と申し上げた。かくして難波の犯罪は発覚し、 朝廷に対して虚偽の告白をしたこと 大使たちを投げ入れて溺れ殺したこと の2つの大罪で許すわけにはならないと宣告され、断罪された。 この直後の11月と4年の6月、新羅が使いを派遣して、調をたてまつった。以後、朝廷と新羅や百済との交渉が多くなった。
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