難波の犯罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 06:14 UTC 版)
敏達天皇2年5月(573年)に、高句麗の使節が再度、越の海の岸に停泊した。船が壊れて、溺れ死ぬ者も多かった。朝廷はそう何度も遭難することを疑わしく思い、使節を饗応しないで送還することになった。そこで、吉備海部直難波に勅令を出して、高句麗の使者を送らせることになった。 7月、越の海岸で難波と高句麗の使者らと相談し、送使の難波の船員である大島首磐日(おおしま の おびと いわひ)と狭丘首間狭(さおか の おびと ませ)を高句麗の使節の船に乗せ、高句麗人の二人を難波の船に乗せた。互いに入れ違いに乗せれば、高句麗の使者の船がよろしくないことを企むまいと備えたのである。ところが、発船して数里ばかり行ったところで、波浪を恐れた難波は使節の二名を捕らえて、海の中に放擲してしまった。 8月、難波は朝廷に、「大きな鯨が待ち受けていて、船と櫂を噛み食われてしまいました。わたしたちは魚が船を呑みこもうとするのを恐れて、海に入り、使節を助けることができませんでした」と報告した。天皇は、この報告が出たらめであることに気づき、雑用に使役して、吉備国に帰還することを許さなかった。
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