難波の鴻臚館
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難波の鴻臚館は難波津(渡辺津)にあったとされ、現在の大阪府大阪市の中央区と北区に架かる天満橋から天神橋の間、あるいは中央区高麗橋近辺、または中央区心斎橋筋の三津寺付近にあったと考えられる。 古墳時代から畿内の港として往来のあった難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体6年(512年)12月に百済武寧王の使者が調を貢献するとともに任那四県の割譲を求めて館に留まったとある。これが外国使節を宿泊させる客館の初見である。 欽明22年(561年)には難波大郡(なにわのおおごおり)にて百済と新羅の使者を接待する。そののち推古16年(608年)4月に隋煬帝の使者裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫に滞在させ、その間に「高麗館(こまのむろつみ)の上に新館を造る」(『日本書紀』)ことで歓迎の準備を整えている。斉明6年(660年)5月8日には高句麗使の賀取文が難波館に到着した。 鴻臚館という名称が難波館に用いられた年代は定かではないが、そののち承和11年(844年)に難波の鴻臚館が摂津国国府の政庁に転用され廃止されたとの記録が残っている(『続日本後紀』承和11年10月戊子条)。
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