発覚と弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 05:34 UTC 版)
6月に入って、密告によって陰謀が画策されていたことが当局の知るところとなった。ただちにホイッグ有力者たちは根こそぎ逮捕され、後に血の巡回裁判(血の審判)で知られるジョージ・ジェフリーズ判事によって、首謀者と目されていたウィリアム・ラッセル及びアルジャーノン・シドニーらは首を刎ねられた。これらの処分は、いずれも証拠が不十分なまま執行されていった。なお、「シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーは陰謀事件に加担していなかったがジェームズの王位継承に批判的であったとしてこの陰謀事件を契機に国外追放となった」という解説が日本でなされる場合があるが、彼は1683年1月に亡くなっており、何らかの混同があったものと思われる。 こうした弾圧によってホイッグは壊滅的な打撃を受け、カトリックの君主ジェームズの即位は動かしがたいものとなった。しかし一方で、カトリックやジェームズへの反感はさらに募ることになり、また1685年に即位したジェームズら権力者側もホイッグを度しがたいテロリスト集団と見なすようになった。両者の軋轢は、やがて議会のネーデルラントへの接近と、後に名誉革命とよばれる1688年のクーデターの遠因となった。 典拠管理 LCCN: sh85116122 MA: 2780230390
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