発覚と大量検挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/06 01:57 UTC 版)
長崎酒屋町に住む指物屋池尻理左衛門が、マリアの聖画像を拝ませて「よか御代」到来を予言して世直しの説法をする老女がいるということを町乙名を通じて長崎奉行所に注進し、郡村矢次(やつぎ)の農民・兵作が明暦3年10月11日夜に捕縛されたことが始まりだった。兵作が姉婿の理左衛門に、「郡村の矢次に、天草四郎に勝るような神童が現われ、老婆とともに萱瀬村(かやぜむら)久良原(きゅうらばら)の岩穴にキリストの絵像を祀って、不思議な術を説いている。その評判を聞いて多くの人々が密かに集まって信仰しているので、聴聞に行かないか」と誘ったことが発端で、当時の長崎奉行・黒川正直が大村藩に通告したことで取り調べが始まった。 郡村を中心に萱瀬村(現・大村市黒木町他)や江串村・千綿村(現・東彼杵郡東彼杵町内)、松原、彼杵など広範囲にわたる調査が行われ、11月15日にはキリシタン90名を摘発したことが幕府に報告された。報賞金目当ての訴人が現れたこともあって、翌万治元年(1658年)7月10日までに603人の逮捕者を出した。さらに9月18日にはキリシタンであった大村純頼の妹・賢孝院の召し使いら5人が捕らえられ、長崎で斬首されたので総計608人となる。 逮捕者の多くは農民で、中には1歳、2歳の幼児もいた。大村藩の吟味では、彼らのキリシタン入信の動機は、終末観念をともなう来世救済願望だけでなく、病気直しのような現世利益への期待もあったという。 しかし、キリシタンである村人を全て処罰してしまうと領民がいなくなってしまうため、この事件が大村藩の存亡にかかわると考えた黒川のはからいで検挙は打ち切られ、領内の仏教化を進めることでキリシタンの撲滅を図ることとなった。黒川ともう1人の長崎奉行である甲斐庄正述は、おおよその目安としてキリシタン100人のうち、1割は牢に残し、1割は村に返し、8割は斬罪にするぐらいの「心持」をもって対応したいと、老中たちに報告している。
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