栃木・福島県令・内務省土木局長とは? わかりやすく解説

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栃木・福島県令・内務省土木局長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:44 UTC 版)

三島通庸」の記事における「栃木・福島県令・内務省土木局長」の解説

明治15年1882年1月から自由民権運動推進する自由党勢力盛んな中通り福島県中部)と会津地方福島県西部)の福島県令を兼任運動の監視沈静化努めた酒田県時代からの腹心である村上朝、海老名季昌柴山景綱荒賀直哉らを福島県庁一等属に任命7月より福島県専任在任中は自由党県議会安部井磐根佐藤忠望山口千代作三浦信六白井遠平佐治幸平市原又次郎岩崎万次郎らと対立会津三方道路 明治15年1882年2月17日三島福島県庁初登庁するや、その10日後の2月28日には早速、県官の海老名季昌土木課長中山高明両名若松町派遣して会津六郡の郡長集め会津三方道路開鑿事業着手した宇田成一らの反対があったが、三島県令として越後街道会津街道山形街道3つの街道会津三方道路)の建設推進した。主に車峠小和滝橋紅葉山通り池ノ入切通し(現福島県129二本松安達線)、白崎橋取上橋釣浜橋岩津橋 (阿賀町)などを改良整備。しかし道路完成したものの、既に陸運中心鉄道に切り替わっていたために一部街道整備時代遅れになっていた。更に道路建設地元住民負担強いたため、自由党との軋轢強めた明治16年1883年10月より栃木県就任12月着任田中正造村上定らと対立同年福島市内を流れ荒川架かる木製信夫橋豪雨により流出三島はただちに原口直させ、石造とした。 塩原道路県令藤川の下、西那須野から塩原温泉経て会津若松通じ道路開鑿計画着工経路関谷宿から塩原までの道は幅7mで馬でしか通れなかったものを改善するためである。藤川自身現地測量行った三島県令就任後県議会決議経て123,000人の労力動員し、岩を削り十二箇所け、半年西那須野から塩原古町までの塩原渓谷街道(約20km)が開通路面には砂利敷かれていた。明治17年1884年)に完成し三条実美大政大臣らが列席する開通式を行った。この塩原道路現在の国道400号線となっている。 さらに、塩原から北上し尾頭峠を迂回し善知鳥沢を経て福島との県境にある山王峠までの区間整備述べ25万人土木工、1万5000人の村人、これに囚人加えて動員し、約10ヶ月完成した。この区間は後に「三島街道」と呼ばれる。 他、塩原から先の日方面にあるノ木峠 (栃木県)、を整備陸奥街道のうち宇都宮氏家間は新道造り氏家 - 白川間および宇都宮以南改修行ったまた、旧日光市街の主要道路(現国119号線)を、神橋までの石段だったものを一般道にした。さらに、佐野市寺岡から桐生市小俣までの約24kmを拡幅改修した安積疎水 明治15年1880年10月かねてから工事進められていた猪苗代湖を引く安積疏水幹線水路七つ分水路完成開成山大神宮通水式を挙行岩倉具視右大臣徳大寺実則宮内卿松方正義大蔵卿品川弥二郎商務大輔政府高官安積疎水掛、県庁高官地方有志らが列席。この時に当時塩原役場の裏にある丘に三条植えた桜の木が今も残っている。 那須疎水 初代栃木県令の鍋島幹の下、運河構想印南丈作矢板武らが参画したが、政府から工事許可下りなかった。そこで印南らは那須開拓社を開設したが、荒涼たる原野那須野ヶ原にはやはりが必要であることから、第二代・栃木県藤川為親の下、再度工事申請行ったところ明治14年1881年)に許可下りた藤川明治16年(1883年)に箱根県令転任すると計画立ち消えとなるおそれが出たため、印南らは明治16年から18年にかけて計6回上京して政府要人誓願したまた、明治17年には印南矢板両名銀行から5,000円を借り入れ西岩崎付近隧道試掘行った三島15年県令となると印南らと同時並行三島政府交渉進めるが、16年3月には岩倉具視から「那須引水ニ付品川意向 農商務省出金ハ困難」との書簡を受ける。17年三島内務省土木局長を兼任する工事本格化明治18年1885年4月には内務省から那須疎水開削許可下り那珂川西岩崎から千本松に至る約15km水路工事着工土木局直轄事業として10万円が下付される。工事には安積疎水工事担った分の石工集団参加した蛇尾川熊川地下を横切る伏越工事では、切石セメント用い技術採用した同年9月竣工し肇耕社で通水式を挙行北白川宮能久親王をはじめ内務卿山県有朋らが列席近年設置され那須野が原博物館敷地には、開墾必須であった那須疏水再現されている。 福島事件 福島県議会議長だった自由党首領河野広中激発戒めたが、明治15年3月三島町野主水らと帝政党作り自由党発行する福島自由新聞に対して官製福島新聞を作るなど、自由党対抗した河野はついに8月福島事件起こし逮捕・投獄された。 明治15年1882年)、福島県出身社会福祉事業家の瓜生岩子知り賛同する三島管内視察会津に来た際には、瓜生呼び善行奨励したまた、瓜生三島訪ね窮民救済について献策をしたという。なお、瓜生明治19年三島勧めもあり、末娘のとめと裁縫修行中の娘3人と共に福島転居長楽寺境内住居構えた同年現在の福島市近辺にあった村の住人らの嘆願を受け、阿武隈川架ける松齢橋着工翌年竣工明治16年1883年6月、七女三島繁子が生まれる。 県庁移転 去る明治15年1882年)に宇都宮町有力者らが県令藤川および内務省県庁移転請願した却下されていた。宇都宮町宇都宮県県庁所在地であり、明治5年以来栃木県県庁所在地並んで因獄、裁判所招魂社鎮台分営県立病院設置されていた。千住までの乗合馬車開通二荒山神社の国弊中社列格など、栃木町をしのぐものがあった。さらに、請願出した者が、庁舎として陸羽街道面した上町の熱木町周辺に5,000坪の敷地供し移転の際の仮庁として台陽寺の伽藍提供しよう申してでいた。こうした背景踏まえて明治17年1884年)、政府官報栃木県県庁所在地栃木から宇都宮移転する布達発すると、県令であった三島指示により県庁移転実行された。2月病気のため一時東京戻っていたが、病気押して県庁移転事務のため帰任鎮台分営借りて事務あたったこの後庁舎宇都宮塙田に置き大通り (宇都宮市)整備。この時期熱海療養しているが4月には栃木戻っている。 若松新道 明治17年1884年)、会津若松通じ新道建設着工延べ労力25万人超(うち15から60歳までの近隣労働者1万5000人)で工事進め、わずか10ヶ月完成した加波山事件 明治17年1884年)に内務省土木局長(県令兼任)、東京市区改正尽力12月、四男三島弥吉生まれる。 同年自由党員が三島暗殺謀った加波山事件が起こる。また、塩原街道開発整備し同時に塩原別荘構えた明治18年1886年)、山形県令を転任。なお、後任柴原和である。

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