栃木・福島県令・内務省土木局長
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「三島通庸」の記事における「栃木・福島県令・内務省土木局長」の解説
明治15年(1882年)1月から自由民権運動を推進する自由党勢力が盛んな中通り(福島県中部)と会津地方(福島県西部)の福島県令を兼任。運動の監視、沈静化に努めた。酒田県令時代からの腹心である村上楯朝、海老名季昌、柴山景綱、荒賀直哉らを福島県庁の一等属に任命。7月より福島県令専任。在任中は自由党や県議会の安部井磐根、佐藤忠望、山口千代作、三浦信六、白井遠平、佐治幸平、市原又次郎、岩崎万次郎らと対立。 会津三方道路 明治15年(1882年)2月17日に三島は福島県庁に初登庁するや、その10日後の2月28日には早速、県官の海老名季昌と土木課長の中山高明の両名を若松町に派遣して、会津六郡の郡長を集め、会津三方道路の開鑿事業に着手した。宇田成一らの反対があったが、三島は県令として越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道(会津三方道路)の建設を推進した。主に車峠、小和滝橋、紅葉山通り、池ノ入切通し(現福島県道129号二本松安達線)、白崎橋、取上橋、釣浜橋、岩津橋 (阿賀町)などを改良・整備。しかし道路は完成したものの、既に陸運の中心が鉄道に切り替わっていたために一部の街道整備は時代遅れになっていた。更に道路建設は地元住民に負担を強いたため、自由党との軋轢を強めた。 明治16年(1883年)10月より栃木県令就任、12月に着任。田中正造、村上定らと対立。 同年、福島市内を流れる荒川に架かる木製の信夫橋が豪雨により流出、三島はただちに原口に架け直させ、石造とした。 塩原道路 前県令の藤川の下、西那須野から塩原温泉を経て会津若松に通じる道路の開鑿が計画・着工。経路の関谷宿から塩原までの道は幅7mで馬でしか通れなかったものを改善するためである。藤川自身も現地で測量を行った。三島が県令就任後、県議会の決議を経て約12万3,000人の労力を動員し、岩を削り十二箇所の橋を架け、半年で西那須野から塩原古町までの塩原渓谷街道(約20km)が開通。路面には砂利が敷かれていた。明治17年(1884年)に完成し、三条実美大政大臣らが列席する開通式を行った。この塩原道路は現在の国道400号線となっている。 さらに、塩原から北上し尾頭峠を迂回し善知鳥沢を経て福島との県境にある山王峠までの区間も整備。述べ約25万人の土木工、1万5000人の村人、これに囚人を加えて動員し、約10ヶ月で完成した。この区間は後に「三島街道」と呼ばれる。 他、塩原から先の日光方面にある桃ノ木峠 (栃木県)、を整備、陸奥街道のうち宇都宮─氏家間は新道を造り、氏家 - 白川間および宇都宮以南は改修を行った。また、旧日光市街の主要道路(現国道119号線)を、神橋までの石段だったものを一般道にした。さらに、佐野市寺岡から桐生市小俣までの約24kmを拡幅し改修した。 安積疎水 明治15年(1880年)10月、かねてから工事が進められていた猪苗代湖の水を引く安積疏水の幹線水路と七つの分水路が完成、開成山大神宮で通水式を挙行。岩倉具視右大臣、徳大寺実則宮内卿、松方正義大蔵卿、品川弥二郎農商務大輔ら政府高官、安積疎水掛、県庁高官、地方有志らが列席。この時に当時の塩原役場の裏にある丘に三条が植えた桜の木が今も残っている。 那須疎水 初代・栃木県令の鍋島幹の下、運河構想に印南丈作と矢板武らが参画したが、政府から工事の許可が下りなかった。そこで印南らは那須開拓社を開設したが、荒涼たる原野の那須野ヶ原にはやはり水が必要であることから、第二代・栃木県令藤川為親の下、再度工事申請を行ったところ明治14年(1881年)に許可が下りた。藤川が明治16年(1883年)に箱根県令に転任すると計画が立ち消えとなるおそれが出たため、印南らは明治16年から18年にかけて計6回上京して政府要人に誓願した。また、明治17年には印南・矢板両名で銀行から5,000円を借り入れ、西岩崎付近で隧道の試掘を行った。三島が15年に県令となると、印南らと同時並行で三島も政府と交渉を進めるが、16年3月には岩倉具視から「那須引水ニ付品川ノ意向 農商務省出金ハ困難」との書簡を受ける。17年に三島が内務省土木局長を兼任すると工事が本格化。明治18年(1885年)4月には内務省から那須疎水開削の許可が下り、那珂川の西岩崎から千本松に至る約15kmの水路工事が着工。土木局直轄事業として10万円が下付される。工事には安積疎水の工事を担った大分の石工集団も参加した。蛇尾川や熊川の地下を横切る伏越の工事では、切石やセメントを用いる技術を採用した。同年9月、竣工し肇耕社で通水式を挙行、北白川宮能久親王をはじめ内務卿山県有朋らが列席。近年設置された那須野が原博物館の敷地には、開墾に必須であった那須疏水も再現されている。 福島事件 福島県議会議長だった自由党の首領・河野広中は激発を戒めたが、明治15年3月に三島は町野主水らと帝政党を作り、自由党が発行する福島自由新聞に対して官製の福島新聞を作るなど、自由党に対抗した。河野はついに8月、福島事件を起こし逮捕・投獄された。 明治15年(1882年)、福島県出身で社会福祉事業家の瓜生岩子を知り、賛同する。三島が管内視察で会津に来た際には、瓜生を呼び善行を奨励した。また、瓜生も三島を訪ね窮民救済について献策をしたという。なお、瓜生は明治19年に三島の勧めもあり、末娘のとめと裁縫修行中の娘3人と共に福島に転居、長楽寺の境内に住居を構えた。 同年、現在の福島市近辺にあった村の住人らの嘆願を受け、阿武隈川に架ける松齢橋を着工、翌年竣工。 明治16年(1883年)6月、七女三島繁子が生まれる。 県庁移転 去る明治15年(1882年)に宇都宮町の有力者らが県令の藤川および内務省に県庁移転を請願したが却下されていた。宇都宮町は宇都宮県の県庁所在地であり、明治5年以来栃木県の県庁所在地と並んで因獄、裁判所、招魂社、鎮台分営、県立病院が設置されていた。千住までの乗合馬車の開通、二荒山神社の国弊中社列格など、栃木町をしのぐものがあった。さらに、請願を出した者が、庁舎として陸羽街道に面した上町の熱木町周辺に5,000坪の敷地を供し、移転の際の仮庁として台陽寺の伽藍を提供しようと申してでいた。こうした背景を踏まえて、明治17年(1884年)、政府は官報で栃木県の県庁所在地を栃木から宇都宮に移転する布達を発すると、県令であった三島の指示により県庁移転が実行された。2月、病気のため一時、東京に戻っていたが、病気を押して県庁移転事務のため帰任。鎮台の分営を借りて事務にあたった。この後、庁舎は宇都宮の塙田に置き大通り (宇都宮市)を整備。この時期、熱海に療養しているが4月には栃木に戻っている。 若松新道 明治17年(1884年)、会津若松に通じる新道の建設を着工。延べ労力約25万人超(うち15から60歳までの近隣労働者約1万5000人)で工事を進め、わずか10ヶ月で完成した。 加波山事件 明治17年(1884年)に内務省土木局長(県令と兼任)、東京の市区改正に尽力。12月、四男三島弥吉が生まれる。 同年、自由党員が三島の暗殺を謀った加波山事件が起こる。また、塩原街道を開発整備し、同時に塩原に別荘を構えた。 明治18年(1886年)、山形県令を転任。なお、後任は柴原和である。
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