望遠鏡による観測とは? わかりやすく解説

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望遠鏡による観測

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:07 UTC 版)

超新星の観測史」の記事における「望遠鏡による観測」の解説

超新星本質、つまり残った中性子星ブラックホール当分の間不明であった観測者研究のもと、恒星光度周期的に変化していることが分かってきた。ジョン・ハインドノーマン・ポグソンは、それぞれ1848年1863年光度についてグラフ描いたところ、急激に明るさ変化するのを発見した。しかし、これに対す関心低かった1866年にはウィリアム・ハギンズ作った分光器用いた新星天文台反復新星あるかんむり座T星が発見された。 1885年になると、天の川銀河以外の銀河観測されエストニアエルンスト・ハルトヴィッヒによりアンドロメダ銀河方向観測された。SN 1885Aとも言われるアンドロメダ座S星は6等級にまでなった。 このような新星新し分野1930年代ウォルター・バーデフリッツ・ツビッキーによりウィルソン山天文台観測された。2人アンドロメダ座S星確認し太陽107年間で出すエネルギー同等爆発起こす星をSuper-novaとし、エネルギーは元の恒星重力崩壊により何らかの星(中性子星)になる時にエネルギー放出する仮定したSuper-novaという言葉1931年、ツビッキーがカリフォルニア工科大学使った言葉で、それ以降アメリカ物理学会会議使われることに決まった1938年にはSuper-novaハイフンなくなりSupernova常用されるようになった超新星爆発比較的珍しいが、天の川銀河でも50年1回起こっており、遠方銀河発見できるようになってからは頻繁に発見されるようになった1933年からツビッキーは45cmシュミット式望遠鏡パロマー天文台使い3年12個の超新星見つけた1938年バーデかに星雲SN 1054残骸ではないか考え星雲超新星残骸であることを発見したバーデかに星雲惑星状星雲比べて拡大速度大きすぎることに気づいた。同年Ia型超新星が距離を計算する指標となると考えた。これは後に、アラン・サンデージやグスタフ・タンマン(英語版)が標準光源使って測定できることを示した超新星スペクトル分類1941年ルドルフ・ミンコフスキーにより初め行われたミンコフスキー超新星水素吸収線見られる見られないかでIとII2つ分類した。後に、ツビッキーがこれに加えてIIIIV、Vを加えることを提案したが、現在は使われていない。さらに現在ではI型にはIaIbIcという分類がある。詳しく超新星#分類参照第二次世界大戦後に、フレッド・ホイル宇宙多種元素観測される原因調べようとした。1946年には質量大き恒星核融合反応をするのは、重元素核融合反応エネルギー放出原因であり、重力崩壊起こす述べた重力崩壊をした恒星不安定になり、爆発によって元素放出するため、星間散らばる超新星爆発エネルギー源核融合だとする理論1960年代の内にホイルウィリアム・ファウラーにより発展された。 超新星のためにコンピュータ使われたのは1960年代ノースウェスタン大学初めである。24インチ望遠鏡ニューメキシコにあるコラリトス天文台設置しコンピュータ操作の元、数分ごとに観測方向変更できるようになったこの方法で2年間で14もの超新星発見している。

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望遠鏡による観測

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火星の観測史」の記事における「望遠鏡による観測」の解説

火星は一番大接近するときも角直径25程度であり肉眼では非常に小さく見える。そのため、望遠鏡発明される前は天球上の位置以外は知られていなかった。イタリア科学者ガリレオ・ガリレイ望遠鏡初め使った人物である。彼の記録では火星観測1610年9月始めていたとされる当時望遠鏡惑星表面詳細に表示するのは困難だったため、まず火星金星や月のように部分的に暗い位相を示すのかを確かめた。彼は成功したという自信はなかったが、12月には火星角直径小さくなっていることに気付いたポーランド天文学者ヨハネス・ヘヴェリウス1645年火星位相について観測している。 1644年イタリアのDaniello Bartoli火星2つの暗い斑点があることを報告した1651年1653年1655年の衝のとき、ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ彼の学徒フランチェスコ・マリア・グリマルディらもアルベド(反射率)の異な斑点気付いた。これを火星地形として最初に図示したのはオランダクリスティアーン・ホイヘンスである。1659年11月28日ホイヘンスは現在大シルチスとして知られる明らかに暗い地域図示し極冠とも思われるものも描いていた[リンク切れ]。同年ホイヘンス火星自転周期が約24時間であることも導いたまた、彼は火星直径地球60%と概算した火星の南の極冠決定的に言及したのは1666年ジョヴァンニ・カッシーニよるもの初めとされる同年、彼は火星にある目印使い自転周期24時間40分だと突き止めた。これは現在と3分以下の誤差しかない1672年にはホイヘンスぼやけて白く見える北の極冠気付いたカッシーニ1671年パリ天文台になった後、太陽系大きさについて考えた惑星軌道大きさケプラーの第三法則により相対的な大きさ分かっていたが実際軌道大きさ分からずじまいだった。このため火星位置恒星では年周視差により位置変えて測定するのに対し日周視差を使う方法測定したこの年には火星近日点通り過ぎていており地球からも近かった南米カイエンヌフランスジャン・リシェ測定しているのと同時にカッシーニジャン・ピカールパリからの火星位置突き止めた。この観測使用機器の質が悪かったが、カッシーニによる視差計算により誤差10%になったイギリスジョン・フラムスティード同様の測定試みており、似た結果得られた。 1704年イタリアジャコーモ・フィリッポ・マラルディ火星南極についての体系的な研究をし、火星回転により変化があることに気付いた。つまり極冠極の中心ではないということ示している。彼は極冠大きさ時間とともに変わっていることにも気付いたイギリスウィリアム・ハーシェル1777年観測始め、特に極冠について観測した1781年に彼は南の極冠極めて大きくなっているのに気付き過去12ヶ月の間は暗かったためとみなした1784年までに南の極冠小さくなっていったので極冠火星季節によって変わり、氷から成っていると考えられた。1781年、彼は火星自転周期24時間39分21.67秒と推定し自転軸との赤道傾斜角を28.5°と測定した。彼は火星には私たちのように暮らすためには注目には値する大気はあまり濃くはないことに気付いた1796年から1809年フランスのホノレ・フレージャー(英語版)は黄土色ベール火星表面覆っていると主張した火星黄色砂嵐記録したのはこれが初めてであるとされている。

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