望遠鏡による観測
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超新星の本質、つまり残った中性子星やブラックホールは当分の間は不明であった。観測者は研究のもと、恒星の光度が周期的に変化していることが分かってきた。ジョン・ハインドとノーマン・ポグソンは、それぞれ1848年、1863年に光度についてグラフを描いたところ、急激に明るさが変化するのを発見した。しかし、これに対する関心は低かった。1866年にはウィリアム・ハギンズが作った分光器を用いた新星の天文台で反復新星であるかんむり座T星が発見された。 1885年になると、天の川銀河以外の銀河が観測され、エストニアのエルンスト・ハルトヴィッヒによりアンドロメダ銀河の方向で観測された。SN 1885Aとも言われるアンドロメダ座S星は6等級にまでなった。 このような新星の新しい分野は1930年代、ウォルター・バーデやフリッツ・ツビッキーによりウィルソン山天文台で観測された。2人はアンドロメダ座S星を確認し、太陽が107年間で出すエネルギーと同等の爆発を起こす星をSuper-novaとし、エネルギーは元の恒星が重力崩壊により何らかの星(中性子星)になる時にエネルギーを放出すると仮定した。Super-novaという言葉は1931年、ツビッキーがカリフォルニア工科大学で使った言葉で、それ以降、アメリカ物理学会の会議で使われることに決まった。1938年にはSuper-novaのハイフンはなくなり、Supernovaが常用されるようになった。 超新星爆発は比較的珍しいが、天の川銀河でも50年に1回は起こっており、遠方の銀河が発見できるようになってからは頻繁に発見されるようになった。1933年からツビッキーは45cmシュミット式望遠鏡をパロマー天文台で使い、3年で12個の超新星を見つけた。 1938年、バーデはかに星雲がSN 1054の残骸ではないかと考え、星雲が超新星残骸であることを発見した。バーデはかに星雲が惑星状星雲に比べて拡大速度が大きすぎることに気づいた。同年、Ia型超新星が距離を計算する指標となると考えた。これは後に、アラン・サンデージやグスタフ・タンマン(英語版)が標準光源を使って測定できることを示した。 超新星のスペクトル分類は1941年、ルドルフ・ミンコフスキーにより初めて行われた。ミンコフスキーは超新星を水素の吸収線が見られるか見られないかでIとIIの2つに分類した。後に、ツビッキーがこれに加えてIII、IV、Vを加えることを提案したが、現在は使われていない。さらに現在ではI型にはIa、Ib、Icという分類がある。詳しくは超新星#分類を参照。 第二次世界大戦後に、フレッド・ホイルは宇宙に多種の元素が観測される原因を調べようとした。1946年には質量の大きい恒星が核融合反応をするのは、重元素の核融合反応がエネルギー放出の原因であり、重力崩壊を起こすと述べた。重力崩壊をした恒星は不安定になり、爆発によって元素を放出するため、星間に散らばる。超新星爆発のエネルギー源が核融合だとする理論は1960年代の内にホイルやウィリアム・ファウラーにより発展された。 超新星のためにコンピュータが使われたのは1960年代のノースウェスタン大学が初めである。24インチ望遠鏡をニューメキシコにあるコラリトス天文台に設置し、コンピュータの操作の元、数分ごとに観測方向を変更できるようになった。この方法で2年間で14もの超新星を発見している。
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望遠鏡による観測
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火星は一番大接近するときも角直径が25秒程度であり肉眼では非常に小さく見える。そのため、望遠鏡が発明される前は天球上の位置以外は知られていなかった。イタリアの科学者、ガリレオ・ガリレイは望遠鏡を初めて使った人物である。彼の記録では火星の観測を1610年の9月に始めていたとされる。当時の望遠鏡は惑星の表面を詳細に表示するのは困難だったため、まず火星が金星や月のように部分的に暗い位相を示すのかを確かめた。彼は成功したという自信はなかったが、12月には火星の角直径が小さくなっていることに気付いた。ポーランド天文学者、ヨハネス・ヘヴェリウスは1645年に火星の位相について観測している。 1644年にイタリアのDaniello Bartoliは火星に2つの暗い斑点があることを報告した。1651年、1653年、1655年の衝のとき、ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリと彼の学徒、フランチェスコ・マリア・グリマルディらもアルベド(反射率)の異なる斑点に気付いた。これを火星の地形として最初に図示したのはオランダのクリスティアーン・ホイヘンスである。1659年11月28日にホイヘンスは現在大シルチスとして知られる明らかに暗い地域を図示し、極冠とも思われるものも描いていた[リンク切れ]。同年、ホイヘンスは火星の自転周期が約24時間であることも導いた。また、彼は火星の直径を地球の60%と概算した。火星の南の極冠を決定的に言及したのは1666年のジョヴァンニ・カッシーニによるものが初めてとされる。同年、彼は火星にある目印を使い自転周期を24時間40分だと突き止めた。これは現在と3分以下の誤差しかない。1672年にはホイヘンスがぼやけて白く見える北の極冠に気付いた。 カッシーニは1671年にパリ天文台長になった後、太陽系の大きさについて考えた。惑星の軌道の大きさはケプラーの第三法則により相対的な大きさは分かっていたが実際の軌道の大きさは分からずじまいだった。このため火星の位置は恒星では年周視差により位置を変えて測定するのに対し、日周視差を使う方法で測定した。この年には火星が近日点を通り過ぎていており地球からも近かった。南米のカイエンヌでフランスのジャン・リシェが測定しているのと同時にカッシーニとジャン・ピカールはパリからの火星の位置を突き止めた。この観測は使用機器の質が悪かったが、カッシーニによる視差の計算により誤差は10%になった。イギリスのジョン・フラムスティードも同様の測定を試みており、似た結果を得られた。 1704年にイタリアのジャコーモ・フィリッポ・マラルディは火星の南極についての体系的な研究をし、火星の回転により変化があることに気付いた。つまり極冠は極の中心ではないということを示している。彼は極冠の大きさは時間とともに変わっていることにも気付いた。イギリスのウィリアム・ハーシェルは1777年に観測を始め、特に極冠について観測した。1781年に彼は南の極冠が極めて大きくなっているのに気付き、過去12ヶ月の間は暗かったためとみなした。1784年までに南の極冠は小さくなっていったので極冠は火星の季節によって変わり、氷から成っていると考えられた。1781年、彼は火星の自転周期を24時間39分21.67秒と推定し、自転軸との赤道傾斜角を28.5°と測定した。彼は火星には私たちのように暮らすためには注目には値するが大気はあまり濃くはないことに気付いた。1796年から1809年、フランスのホノレ・フレージャー(英語版)は黄土色のベールが火星表面を覆っていると主張した。火星の黄色い雲や砂嵐を記録したのはこれが初めてであるとされている。
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