政治家・君主・軍人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 15:06 UTC 版)
献帝 - 後漢の最後の皇帝。延康元年(220年)魏の曹丕に禅譲した直後に、当時魏と敵対していた蜀に「献帝が殺された」という情報が届き、蜀の劉備はそれに基づいて「漢の景帝の子孫である自分が漢王朝を継承する」として皇帝の位についた(蜀漢)。実際には献帝は魏から山陽公に封じられて生存しており、234年に死去している。 源頼朝 - 建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こった混乱の中で、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に入った。実際には頼朝は襲われそうになっただけだったが、このときに頼朝の弟の源範頼が「それがしがおりますのでご安心ください」と頼朝の妻北条政子に見舞いの言葉をかけたのが頼朝に「叛意あり」ととられ粛清されるという余波があった。 源頼家 - 建仁3年(1203年)夏、病気が悪化したため、母の北条政子らは「9月1日に頼家が死亡したため、弟の千幡(後の源実朝)が跡目を継いだ」と朝廷に使いを出し、その数日後に千幡は朝廷から征夷大将軍に任官された。しかし、実際には頼家は死亡しておらず、病状が回復したものの、将軍職を解かれたことを知り、激怒したが、出家させられた。その後、頼家は伊豆国の修善寺に移され、翌元久元年(1204年)7月18日に同地で殺害された。 西郷隆盛 - 安政5年(1858年)、安政の大獄により尊王攘夷派の僧・月照を薩摩藩に匿っていたが、幕府の追及が厳しくなったため、薩摩藩は月照を追放することに決めた。西郷は月照を船に乗せ、11月16日(新暦では12月20日)夜半、月照とともに錦江湾に入水した。月照は死亡したが、西郷は奇跡的に助かった。藩は西郷も死亡したものとして、墓まで建てて幕府の役人に見せた。その後、西郷は徐々に回復し、藩は西郷を奄美大島に移し、名も「菊池源吾」と改めさせた。明治10年(1877年)の西南戦争での自刃後は逆に、「中国大陸に渡った」「ロシア皇太子(後のニコライ二世)の訪日に同行する」といった生存説が流れた。このことが大津事件の一因となっている 山本権兵衛 - 1923年、第2次山本内閣の親任式当日に暗殺の噂が流れた。折しも関東大震災の直後で問い合わせもままならず、水戸の新聞の中に号外まで発行したものがあったという。 岡田啓介 - 1936年、二・二六事件の際、秘書で義弟の松尾伝蔵が誤認されて射殺されたため、直後に死亡説が流れた。松尾を射殺した反乱軍は「岡田首相も射殺」として発表したほか、岡田本人が反乱軍が占拠する首相官邸に閉じ込められて外部と連絡できなくなったため首相臨時代理が立てられている。これは、首相本人が健在で臨時代理が立った唯一の例である。 唐生智 - 1937年、南京防衛戦での逃亡により軍法会議にかけられ、銃殺刑に処されたと報道された。詳細は「唐生智#朝日新聞の誤報」を参照 伊藤律 - 1953年より中国で投獄され、消息不明となったため日本国内では死亡したものとされた。その後、1980年に中国当局が生存を発表し、同年に釈放され帰国した。 ジャヤプラカーシュ・ナーラーヤン(英語版) - 1979年3月22日に死亡が発表された。間もなく訂正され、生存を発表。ナーラーヤンは同年10月に死亡。 田中角栄 - 1985年5月8日、東京都内の報道機関に匿名の男性からあった電話がきっかけで死亡説が流れ、女婿の田中直紀や中曽根康弘首相が否定する騒ぎになった。 アハマド・ザキ・ヤマニ - 1985年9月11日、「サウジアラビアで起こったクーデターで銃殺された」という噂が流れたが(発信源はロンドン株式市場とされる)、公式に否定された。 金日成 - 1986年11月15日の朝、『朝鮮日報』が東京発で金暗殺の噂があると掲載し、16日朝には同紙と提携している毎日新聞がソウル発報道として追随する記事を掲載した。16日午前、国防部代弁人が「休戦線北側の宣伝マイクから金の死亡が放送された」と発表し、(北朝鮮を除く)世界中の報道機関に報道された。「金死亡」の報道は18日午前、金が平壌空港に姿を見せるまで続いた。 鄧小平 - 六四天安門事件発生後の1989年6月5日夜頃から香港で死亡の噂が流れ、6日には台湾の夕刊紙で「既に死去した」との報道がなされた。しかし、9日夜に中南海で厳戒部隊の幹部と会見している様子が中国中央電視台で放送され、否定された。 ゼリムハン・ヤンダルビエフ - 一時「1996年4月28日、チェチェン独立派武装勢力の内部抗争で射殺された」と伝えられたが、その後生存が確認された。 ポル・ポト - 1996年6月6日に死亡説が流れたが、クメール・ルージュ幹部はこれを否定した。 竹下登 - 1999年4月に死亡説が流れた。 サッダーム・フセイン - 2001年1月3日、イラクの反体制組織イラク・イスラム革命最高評議会が「心臓発作で死亡」と発表。しかし、6日にフセインが演説を行っている姿がイラクのテレビで放送され、否定された。 ロナルド・レーガン - 2003年4月、CNNのウェブサイトに死亡記事が掲載された。予定稿の誤掲載。同じく2003年4月、ウェブサイト『ザ・スモーキング・ガン(英語版)』にも死亡記事が掲載された。 フィデル・カストロ、ヨハネ・パウロ2世、ジェラルド・フォード、ディック・チェイニー - 2003年4月、ウェブサイト『ザ・スモーキング・ガン』に死亡記事が掲載された。 ネルソン・マンデラ - 2003年4月、ウェブサイト『ザ・スモーキング・ガン』に死亡記事が掲載された。2011年1月15日にもTwitterで死亡説が流れた。また、2010年頃からインターネット上で「1980年代に獄中死していた」という虚偽記憶を持つ人々が報告されている。実際の死去は2013年。詳細は「マンデラ効果」を参照 ウサーマ・ビン=ラーディン - 2004年、フランスの地方紙などで「腸チフスで死亡した」との報道がなされたが、ジャック・シラク大統領により否定された。詳細は「ウサーマ・ビン=ラーディン#2001年以降の足取り」を参照 金正日 - 2009年12月1日、朝鮮労働党総書記、韓国のインターネット上で死亡説が流れ、韓国総合株価指数(KOSPI)を一時20ポイント下落させる騒ぎになった。また、重村智計は著書『金正日の正体』(講談社、2008年)で死亡説・影武者説を唱えている。一方で、藤本健二は2008年10月時点で当時流布していた「2003年に死亡」説・影武者説について否定的な考えを示していた。2011年2月2日にも中国筋の情報として死亡説が流れたが、同年12月17日に公式に死亡が発表された。 江沢民 - 元中国共産党中央委員会総書記、2010年11月9日と2011年7月7日の2回、死亡説が流れる。 アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ(サウジアラビア国王) - 2011年2月10日、死亡説が流れるが、外務大臣により否定された。 李明博 - 2012年3月、北朝鮮の労働新聞が北朝鮮国内において死亡説が流布していると報じた。 田中真紀子 - 落選後の2014年春に死亡説が流れた。 毛新宇 - 中国共産党初代中央委員会主席である毛沢東の孫。2018年に北朝鮮を訪問した際に交通事故で死去したとされた。詳細は「毛新宇#死亡説」を参照 金正恩 - 2020年4月、朝鮮労働党委員長、公の場に姿を見せなくなったことから、手術ミスによる危篤説や死亡説が海外で流布した。その後、5月1日に肥料工場の竣工式に出席したことで健在をアピールした。
※この「政治家・君主・軍人」の解説は、「死亡説」の解説の一部です。
「政治家・君主・軍人」を含む「死亡説」の記事については、「死亡説」の概要を参照ください。
- 政治家君主軍人のページへのリンク