政治家ゲバラ
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革命の1ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、およそ600人が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断したのは、「グアテマラ革命の失敗は、軍内部にアルベンスへの裏切りがあったため」と後に語っている。6月には通商大使として独立したばかりのアジア、アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。農地改革と企業の国有化を進めた。 1960年8月6日、カストロがアメリカの資本から成る石油関連産業を接収、国有化すると、これに対してアイゼンハワー大統領はキューバへの経済封鎖を行った。翌1961年4月にはケネディ大統領がキューバ侵攻作戦を認可したため、プラヤ・ヒロン侵攻事件が勃発し、アメリカに支援された傭兵軍がPBSUCCESS作戦後軍事独裁政権が続いていたグアテマラからキューバに侵攻したが、ゲバラはカストロと共に侵攻軍を破った。この事件の後、5月1日にカストロはキューバ革命の社会主義革命化を宣言した。 ゲバラは各国に外遊を行い、8月にウルグアイのプンタ・デル・エステで開催された米州機構の総会では、ブラジルのジャニオ・クアドロス大統領から南十字星勲章を授与された。帰国後同年10月に、工業相に就任した。経済封鎖による資源不足、さらに社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ積み等、積極的にボランティアに参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、理想主義的なゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。 1964年12月11日、国連総会にキューバ主席として出席。演説の中でこう述べた。 我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。あまりにも多くの血が流されたからだ。代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!” — 1964年12月11日、国連総会にて 1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月27日に独立の過程によりキューバの盟友だったアルジェリアのアルジェで行われた「第二回アジア・アフリカ経済会議」において、ベン・ベラ大統領と共に起草した 演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。3月に帰国後、キューバ政府は「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告をソ連から受ける[要出典]。これを受けて[要出典]カストロにキューバの政治の一線から退くことを伝え、カストロ、父母、子供たちの三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。このことはしばらくカストロの側近以外には知らされず、半年後の10月3日のキューバ共産党大会においてカストロが手紙を読み上げたことで、初めて世人に知られることとなった。
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