指揮者・作曲家として
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「エフゲニー・スヴェトラーノフ」の記事における「指揮者・作曲家として」の解説
スヴェトラーノフは、グリンカ以降の全てのロシア・ソビエト連邦の交響楽を録音するという念願をあと一歩で果たせなかったが、かなりの数のライブ録音やスタジオ録音に成功した。アレンスキーの交響曲全集、カリーンニコフの管弦楽曲全集、ミャスコフスキーの交響曲全集などは貴重な遺産である。モソロフの《鉄工場》、ショスタコーヴィチの《森の歌》等のライブ録音は、この指揮者の特徴を端的に示した演奏として名高い。スヴェトラーノフはロシア人の指揮者として、(共産党幹部から禁止された作曲家を除き)ロシア人による交響作品全曲をレパートリー化した最初の存在である。メロディアの「ロシアン・シンフォニック・アンソロジー」ほかロシア人の作曲家だけでアルバム数が100を超えた存在は、近年のロシアの財政難を考慮すると今後も出現することはないだろうとされる。 晩年は、運営を巡ってのロシア国立交響楽団との関係が悪化するにつれ、フリーの指揮者としてロシア外のオーケストラへの客演が増えた。オランダのハーグ・レジデンティ管弦楽団やスウェーデン放送交響楽団、NHK交響楽団などに客演している。その様子は、ラフマニノフの交響曲第2番、チャイコフスキーの三大バレエ曲集などのCDに記録されている。 作曲家としては、年齢的にはプロコフィエフやショスタコーヴィチより若いが、後期ロマン派音楽の伝統から脱しておらず、ピアニストとして得意としたラフマニノフやメトネルの影響を濃厚に受けている。代表的な作品として、交響曲第1番、ピアノ協奏曲、交響詩『赤いカリーナ』(従来は『赤いゲルダーローズ』と訳されていた)、ヴァイオリンと管弦楽のための『詩曲』などが挙げられる。スヴェトラーノフの作品は自身で指揮した録音が複数あるほか、師のガウクによる録音も現存する。
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指揮者、作曲家として
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「チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード」の記事における「指揮者、作曲家として」の解説
19世紀の終盤頃には、スタンフォードの学術的な業務は作曲や演奏の妨げにならない程度になっていた。彼は1885年、初代指揮者であるオットー・ゴルトシュミットの跡を継いで、ロンドンのバッハ合唱団 の常任指揮者になった。彼は1902年までそのポストを務めている。1888年1月にはハンス・フォン・ビューローがスタンフォードの「交響曲第3番 アイリッシュ」のドイツ初演をハンブルクで指揮し、強い印象を受けたビューローは直後にベルリンの公演でも同曲をプログラムに組み込んだ。この曲はリヒターがウィーンで演奏しており、その後マーラーもニューヨークで指揮している。スタンフォードはケンブリッジの王立歌劇場のためにアイスキュロスの「オレステイア」中の「慈しみの女神たち」への付随音楽(1885年)、ソポクレスの「オイディプス王」への付随音楽(1887年)を作曲した。『タイムズ』紙は前者に関してこう評している。「スタンフォード氏の音楽は劇に重要な役割を果たし、またそれ自体も美しいものだった。さらに、音楽の質は現代の作曲家の中において非常に稀なものだった。その形式である。」両作品においてスタンフォードはワーグナー流のライトモティーフを多用しており、『タイムズ』紙は「オイディプス王」のワグネリアン的性格を指摘している。 1890年代に「ザ・ワールド」の批評家であるバーナード・ショーは「バセットホルン」と例えて、スタンフォードに対する入り混じった感情を表現した。ショーの考えでは、スタンフォードの最良の作品は抑制されないアイルランド風のものである。ショーはスタンフォードの厳粛なビクトリア朝の合唱音楽には軽蔑的な立場をとっていた。1891年7月のショーのコラムはスタンフォードの勇壮な曲を作る才能への賛辞に満ちており、リチャード・ドイリー・カート はサヴォイ・オペラのサリヴァンの後継としてスタンフォードを雇うべきだ、とまで述べた。ところが同年10月には、彼はスタンフォードのオラトリオ「エデン Eden」を非難し、パリーやマッケンジーらと一括りにした上で彼らが内輪で褒め合う団体を組織し、「偽クラシック」を作っていると述べている。 高名な音楽家たちを非難するなんて、私は自分が信じられない。もしエデンに疑問を抱いたならば、パリー氏やマッケンジー氏にたずねてみることだ。彼らは天まで届くほどの拍手をするだろう。マッケンジー氏の意見は決定的なものに間違いない。だって彼は来たりし創造主(Veni Creator)ではなく、スタンフォード教授とパリー氏に認められた素晴らしい音楽家じゃないか。パリーが誰なのか知りたいって?この祝福された二人の歌姫 の作曲者について知っておいて何の得があるかは、マッケンジー氏とスタンフォード教授に聞いて欲しい。 フラー・メイトランドにとっては、ショーに風刺された三人組はイングランド音楽のルネッサンス の牽引役であった(もっとも、スタンフォードもマッケンジーもイングランドの生まれではなかったが)。この見方は、いくつかの学術サークルの中では何年にもわたって残り続けた。 スタンフォードは1893年にオペラの作曲を再開し、「神秘の預言者」の大規模な改定、短縮版を世に送り出した。この版の英国初演は7月にロイヤル・オペラ・ハウスで行われた。当時の『タイムズ』紙の主席音楽評論員は友人のフラー・メイトランドであり、新聞の演奏会評はこのオペラを賛美する内容であった。フラー・メイトランドによれば、「神秘の預言者」はルッジェーロ・レオンカヴァッロの「道化師」、ビゼーの「ジャミレ」、マスカーニの「ランツァウ家の人々(英語版)」など が並ぶ、そのシーズンのオペラの中でも最も斬新であったという。スタンフォードの次のオペラは、ジョージ・H・ジェソップ(George H. Jessop)の台本による喜劇「探偵オブライエン Shamus O’Brien」(1896年)であった。指揮をしたのは若いヘンリー・ウッドで、彼は興行主のオーガスタス・ハリスが独裁的な作曲者をなだめて公演の邪魔をしないようにしたことを思い返している。スタンフォードはウッドに指揮の稽古をつけようとしたが、ウッドは感銘を受けることはなかった。このオペラは成功し、82回の連続公演を行った。 この作品のドイツ語訳は1907年にヴロツワフで演奏されている。トーマス・ビーチャムはこのオペラを「色彩豊かで、活気ある作品」と考えており、1910年に女王陛下劇場 で催されたオペラ・コミックシーズンで再演した。 1894年の終わり、グローヴは王立音楽大学を退官した。後継にはパリーが選ばれ、スタンフォードは友人の昇進を心から祝ったのだが、間もなく二人の関係は悪化してしまう。スタンフォードは頭に血が上りやすく、喧嘩早いことで知られていた。グローヴは王立音楽大学での教員会議の様子について記している。「そこではいくぶん精神が・・・彼自身は常にスタンフォードとして仕事を続けていた。そういう彼は時に意地悪く、喧嘩腰に、反駁ばかりする人物に、誰のせいでもなく自らなっていた!彼は誰より抜きんでて賢く有能な、知識経験が豊富で力強い人材であり、そこに疑いの余地はなかったのだが、それを役立てようと思うとしばしば法外な料金を取られることになってしまうのだった。」パリーはスタンフォードの好戦的なやり口に苦しむようになっていき、神経質なスタンフォードに深く気を揉んでいた。彼らの間のいさかいは、スタンフォードが旧友かつ目下であったパリーの権威を認めるのに難色を示したことから起こることもあったが、他にも1895年にパリーがスタンフォードの管弦楽法の講座への充当金を減額した際には、スタンフォードをひどく憤慨させる結果となった。 1898年、年老いて調子の思わしくなかったサリヴァンは、1880年から続けてきたリーズ音楽祭の指揮者を退任した。彼はスタンフォードが前年にリーズ・フィルハーモニック協会 の指揮者になった狙いは、音楽祭の後継者となることだと信じていた。スタンフォードは後に、彼がサリヴァンと一部共謀していたということはないと否定した『タイムズ』紙に感謝している。当時サリヴァンは他人の作品に対してはいい加減な指揮者だと考えられており、一方スタンフォードの指揮者としての仕事ぶりにはそのような批判はなかったため、彼はサリヴァンの後任としてポストに就いた。スタンフォードは1910年までこの職を務めた。音楽祭のために作曲した彼の作品には「海の歌 Songs of the Sea」(1904年)、「スターバト・マーテル Stabat Mater」(1907年)、「海軍歌 Songs of the Fleet」(1910年)がある。スタンフォードの在任期間中にリーズ音楽祭のために作品を提供した作曲家はパリー、マッケンジーやスタンフォードの教え子の7人である。スタンフォード時代で、最も知られた作品はおそらく1910年に初演されたヴォーン・ウィリアムズの「海の交響曲(交響曲第1番) A Sea Symphony」だろう。
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