指揮者生活晩年とは? わかりやすく解説

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指揮者生活晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/12 03:24 UTC 版)

ヘンリー・ウッド」の記事における「指揮者生活晩年」の解説

このように英国第一指揮者の評をほしいままにしていたウッドであったが、1925年頃からはその地位翳りがみえてくるようになる彼の強情さ厳格さといった性格部下楽団員嫌われたし、10歳年下トーマス・ビーチャム、あるいは更に若い世代属すエイドリアン・ボールトマルコム・サージェントジョン・バルビローリなどの台頭著しかった。かつてイギリス人音楽愛好家親しまれウッド編曲バッハヘンデル楽曲も、皮肉なことに聴衆の耳が肥えてくるに従ってその編曲19世紀味付け時代遅れに響くようになってきた。数度離婚経済的失敗などプライヴェート面に起因する一種鬱状態もあり、彼の活動停滞した。 それでも、その創始から共に歩んできたプロムス1927年BBC運営引き継がれ、「BBCプロムス」と呼称されていた)ではウッド中心的存在であり続けたBBCマーラー千人の交響曲英国初演1930年)など重要なイヴェントではほとんど必ずといっていいほどウッドタクト任せている。 第二次世界大戦勃発にともないBBC1940年および41年プロムス運営から手を引いたが、ウッド民間スポンサーシップを受けプロムス継続1941年5月10日ドイツによる空襲でクイーンズ・ホールが破壊された後はロイヤル・アルバート・ホール会場移して続行した結局BBC1942年からはプロムス運営再開今日至っている。 この1942年にあってはウッドは齢70過ぎた身で灯火管制下の英国頻繁に移動ロンドンBBC交響楽団およびロンドン交響楽団)、マンチェスターハレ管弦楽団)など各都市への客演を行うなど矍鑠したものであった。しかし翌1943年には全般的な体力衰えからプロムスプログラム欠場、翌44年ウッド75歳を祝う盛大なコンサートエリザベス王妃列席仰いで挙行され、彼も数曲のタクトを振るなどもあったが、同年夏のプロムスドイツV1飛行爆弾ロンドン攻撃などのため短縮されかわりにベッドフォード疎開スタジオら行われた中継放送数回演奏指揮した後、同年8月19日ハートフォードシャー州・ヒッチンでその生涯閉じた最後指揮7月28日ベートーヴェン交響曲第7番であった

※この「指揮者生活晩年」の解説は、「ヘンリー・ウッド」の解説の一部です。
「指揮者生活晩年」を含む「ヘンリー・ウッド」の記事については、「ヘンリー・ウッド」の概要を参照ください。

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