指揮者生活晩年
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このように英国第一の指揮者の評をほしいままにしていたウッドであったが、1925年頃からはその地位に翳りがみえてくるようになる。彼の強情さ、厳格さといった性格は部下の楽団員に嫌われたし、10歳年下のトーマス・ビーチャム、あるいは更に若い世代に属するエイドリアン・ボールト、マルコム・サージェントやジョン・バルビローリなどの台頭は著しかった。かつてイギリス人音楽愛好家に親しまれたウッド編曲のバッハやヘンデルの楽曲も、皮肉なことに聴衆の耳が肥えてくるに従ってその編曲の19世紀的味付けが時代遅れに響くようになってきた。数度の離婚や経済的失敗などプライヴェート面に起因する一種の鬱状態もあり、彼の活動は停滞した。 それでも、その創始から共に歩んできたプロムス(1927年にBBCに運営が引き継がれ、「BBCプロムス」と呼称されていた)ではウッドは中心的存在であり続けた。BBCはマーラー「千人の交響曲」英国初演(1930年)など重要なイヴェントではほとんど必ずといっていいほどウッドにタクトを任せている。 第二次世界大戦の勃発にともない、BBCは1940年および41年のプロムスの運営から手を引いたが、ウッドは民間のスポンサーシップを受けプロムスを継続、1941年5月10日のドイツによる空襲でクイーンズ・ホールが破壊された後はロイヤル・アルバート・ホールに会場を移して続行した。結局BBCも1942年からはプロムスの運営を再開、今日に至っている。 この1942年にあっては、ウッドは齢70を過ぎた身で灯火管制下の英国を頻繁に移動、ロンドン(BBC交響楽団およびロンドン交響楽団)、マンチェスター(ハレ管弦楽団)など各都市への客演を行うなど矍鑠としたものであった。しかし翌1943年には全般的な体力の衰えからプロムス全プログラムを欠場、翌44年、ウッドの75歳を祝う盛大なコンサートがエリザベス王妃の列席を仰いで挙行され、彼も数曲のタクトを振るなどもあったが、同年夏のプロムスがドイツV1飛行爆弾のロンドン攻撃などのため短縮され、かわりにベッドフォードの疎開所スタジオから行われた中継放送で数回の演奏を指揮した後、同年8月19日にハートフォードシャー州・ヒッチンでその生涯を閉じた。最後の指揮は7月28日のベートーヴェン交響曲第7番であった。
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