指揮者への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 04:06 UTC 版)
「モーリス・アブラヴァネル」の記事における「指揮者への道」の解説
父エドゥアールに医師になるよう説得され、アブラヴァネルはチューリヒ大学に進学するが、解剖学になじめず、実家に「医者になるぐらいなら、オーケストラの予備の打楽器奏者になっているほうがましです」と書き送ると、父親も折れた。 1922年、ワイマール共和国が不況に陥っているさなかに、ベルリンに留学。経済的困難にもかかわらず、ベルリンは3つの歌劇場(ベルリン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、クロル歌劇場)を支援しており、この時期フルトヴェングラーやワルター、R・シュトラウス、クレンペラーの指揮により、ベルリンのそれぞれの歌劇場では連日連夜の公演が行われていた。 アブラヴァネルはヴァイルに入門、当時のヴァイルは家計を支えるために、46人に上る門弟を抱えていた。1年後、アブラヴァネルは、弱冠20歳でノイシュトレリッツの歌劇場にコレペティトールの職を得る。当時この職は、指揮者になるにはうってつけだった。リハーサルを行ない、歌手を指導し、歌劇場の雑務をこなすかたわら、指揮者が急に指揮できなくなったときは、代役をつとめるのが常だったからである。 1924年にノイシュトレリッツの歌劇場が全焼、4人の常任指揮者が他所に地位を得る中、アブラヴァネルは歌劇場の楽団員に、城館で演奏を指揮する気はないかと打診され、リハーサルなしの演奏を2度引き受けて、いくらかの報酬を得た。 1925年にザクセン州ツヴィッカウに合唱指揮者の職を得、2年間をオペレッタを指揮して同地に過ごす。ツヴィッカウでの成功を受けて、アルテンブルクの歌劇場に、常勤指揮者として、より有利な地位を与えられる。同地のオーディションで、著名なソプラノ歌手ヘドヴィヒ・シャーコの娘フリーデルと出会い、後に結婚(フリーデルはカトリックに改宗して、洗礼名マリーを名乗るようになった)。 アルテンブルクで2年間を過ごした後、カッセル歌劇場の首席指揮者の地位を得る。1931年には、ベルリン国立歌劇場にてヴェルディの『運命の力』を指揮、感銘を受けた楽団員はアブラヴァネルの力量を称賛し、アブラヴァネルを客演指揮者として呼び戻すことを決定する。この時まだ27歳に過ぎなかった。
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