指揮者となるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/12 03:24 UTC 版)
「ヘンリー・ウッド」の記事における「指揮者となるまで」の解説
ヘンリー・ウッドは1869年にロンドンに生まれた。父は教会の合唱隊で歌い、かつチェロをたしなみ、母は出身地であるウェールズの歌謡を歌うなど、アマチュアながらも音楽に熱心な両親だった。ウッドはヴァイオリン、ピアノそしてオルガンを学び、14歳の時にはオルガンのソロ・リサイタルを行うまでになった。1886年から3年間は王立音楽アカデミーで作曲、ピアノ、オルガンを更に学び、また同アカデミーの高名な声楽教師であったスペイン人、マヌエル・ガルシア(2世)のレッスンにおいて伴奏を務めたりもした。ウッド自身は作曲家として大成したいと希望しており、アカデミー在学中からいくつかの歌曲あるいは器楽小品を、後には3本のオペレッタを作曲・出版したが、いずれも成功には程遠かった。 1889年からはいくつかのオペラ一座で指揮者を務める。そこで彼は多くの新作初演(あるいは既存作の英国初演)に関与している。たとえば、1891年のアーサー・サリヴァン『アイヴァンホー』初演でウッドは作曲者サリヴァンの片腕であったし、1892年のチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』ロンドン公演は同作曲家のオペラのロンドンにおける初演であった。こうした「新作楽曲をイギリスの聴衆に紹介する」という役割は、ウッド生涯の役回りとなっていく。
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