作曲・出版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 06:03 UTC 版)
「スペイン舞曲 (サラサーテ)」の記事における「作曲・出版」の解説
数年前のヨハネス・ブラームスの『ハンガリー舞曲集』をきっかけに、ヨーロッパの民俗舞曲の可能性を認めるようになっていたドイツの出版社ジムロックから、1877年に依頼を受けて作曲された。サラサーテが作曲した8曲の小品はジムロックから全4集に分けて出版されており、それぞれにリズムや性格が対比された2つの舞曲が収められている。曲集は大きな商業的成功をおさめ、ジムロックのカタログには「第5集」から「第14集」までさらに10集が列挙されたが、最終的にそれら(『ナイチンゲールの歌』El canto del ruiseñor 作品29や『スコットランドの歌』Airs Écossais 作品34も含まれていた)が『スペイン舞曲』として出版されることはなかった。 『第1集』作品21(マラゲーニャ、ハバネラ)は1877年12月から1878年2月にかけてドイツで作曲され、ベルリンで面識を持っていたヨーゼフ・ヨアヒムに献呈。『第2集』作品22(アンダルシアのロマンス、ホタ・ナバラ)は1878年に行われたスカンディナヴィアへの最初のツアーの最中に作曲され、モラヴィア出身のヴァイオリニストのヴィルマ・ネルーダ(英語版)に献呈された。『第3集』作品23(プライェラ、サパテアード)は1879年に作曲され、同じ年にフランクフルトで面識を持っていたドイツのヴァイオリニスト、フーゴー・ヘールマン(英語版)に献呈されている。 『第4集』作品26はパリで1881年10月に書き上げられたが、唯一舞曲に名前が付けられておらず、その代わり下敷きになった舞曲(ビート (El vito)、ハバネラ)の名前で呼ばれることが多い。1881年末にサンクトペテルブルグで面識を持ったレオポルド・アウアーに献呈された。
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