作曲・初演の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 02:06 UTC 版)
「ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)」の記事における「作曲・初演の経緯」の解説
作曲は1947年7月21日に開始され、1948年3月24日に完成した。しかし、十二音技法を使うなどの前衛的な書法と、1948年2月に共産党中央委員会によりジダーノフ批判が始まったことから、ショスタコーヴィチは発表を控えた(詳細は「作品番号」の項参照)。 この頃のショスタコーヴィチは、「若き親衛隊」(1948年)や「エルベの邂逅」(1949年)など、ソヴィエト的テーマの映画音楽を相次いで書いていた。これらの音楽において彼は、大衆との結びつきを目指したと言われており、ヴァイオリン協奏曲第1番も全曲に通奏低音のように流れるユダヤ趣味をはじめ、ロシアの民族的要素が主導的役割をもっている。しかし、この曲でショスタコーヴィチは確かにロシア民族の本性に立ってはいるが、社会主義リアリズムの「形式は民族的」を皮相的に解釈したような、単に民謡や民族舞踏のリズムを流用に留まってはいない。ショスタコーヴィチは、インターナショナルな内容を追求しながらも、なおかつ民族的な表出を持ったものを完成しつつあった。 そしてこの方向は、映画音楽「ベルリン陥落」やオラトリオ「森の歌」、合唱曲「革命詩人の詩による10の詩」(1951年)、カンタータ「我が祖国に太陽は輝く」に連なり、大衆歌の様式と結びつけて伝統的なロシアの合唱音楽の形式が、現代的感覚の中で発展させられた。戦前戦後を通じて、ショスタコーヴィチがこれほど民族的であったことはないと言われる。 ヴァイオリン協奏曲第1番は、スターリン死後の雪解けの雰囲気の中、交響曲第10番の初演が一応の成功をもって終え、ジダーノフ批判が一段落したと考えられた1955年、曲の完成から約7年が経った頃に発表された。この時期「ソヴェーツカヤ・ムージカ(ソヴィエトの音楽)」に発表されたハチャトゥリアンの論文(1953年)や共産党機関紙「プラヴダ」に掲載されたショスタコーヴィチの論文(1956年)に見られるように、ソヴィエトの社会主義芸術は、「創造性」や「個性」に漸次的にではあるが再び注目し始めていた。 初演は1955年10月29日、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー交響楽団、ヴァイオリン独奏ダヴィッド・オイストラフにて行われた。1955年12月31日、オイストラフはミトロプーロス指揮のニューヨーク・フィルハーモニックでアメリカ初演する際のインタビューで「交響曲第10番に酷似した最新の作品」との発言を残している。
※この「作曲・初演の経緯」の解説は、「ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)」の解説の一部です。
「作曲・初演の経緯」を含む「ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)」の記事については、「ヴァイオリン協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)」の概要を参照ください。
作曲・初演の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 16:02 UTC 版)
「弦楽五重奏曲 (ブルックナー)」の記事における「作曲・初演の経緯」の解説
この曲が作曲された1879年は、ブルックナーが55歳であり、交響曲第5番、交響曲第6番など円熟期の傑作を書いていた時期である。この弦楽五重奏曲が作曲されたのは、当時ウィーンで著名なヴァイオリニスト兼指揮者であった、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー(1世)からの勧めによると言われる。ヘルメスベルガーは、弦楽四重奏団で第1ヴァイオリンを担当し、ベートーヴェンの演奏で評価を得るなど、室内楽の分野においても著名な演奏家だった。ブルックナーが、室内楽曲において典型的な弦楽四重奏の編成ではなく、弦楽五重奏を採用したのは、内声部の充実と、声部の動きの広がりを追求したためと考えられる。 作曲は、1878年12月から、1879年7月12日にかけて行われた。しかし、ヘルメスベルガーは、スケルツォがよくないと評し、ブルックナーに改作を要求する。そこでブルックナーはスケルツォに替えるものとして「間奏曲 (Intermezzo)」を1879年12月21日に完成させた。こうして完成した弦楽五重奏曲ヘ長調だが、ヘルメスベルガーはなかなか演奏をしなかった。これは、ブルックナーの作品は常にブラームスや批評家のエドゥアルト・ハンスリックに酷評されていたので、この論争に巻き込まれなくなかったためと考えられる。 初演は1881年11月17日にようやく行われた。ウィーンのベーゼンドルファー・ホールで、ワーグナー協会の催しとして、非公開で行われたものである。演奏はブルックナーの弟子らによって行われている。この非公開の演奏会のあと、ブルックナーは間奏曲の楽章を元のスケルツォに戻している。外された「間奏曲」は、オペラの間奏曲のように明るい曲で、ウィーンらしさをたたえた楽しい小品として、今日この弦楽五重奏曲ヘ長調とは別途に出版されている。 公開初演は、作曲後6年を経た1885年1月8日にウィーンにて、作曲を勧めたヘルメスベルガーの弦楽四重奏団らによって行われ成功を収めた。ただしブルックナーは、この曲をヘルメスベルガーには捧げず、バイエルンのマクシミリアン・エマヌエル公(オーストリア皇后エリーザベトの弟)に捧げている。
※この「作曲・初演の経緯」の解説は、「弦楽五重奏曲 (ブルックナー)」の解説の一部です。
「作曲・初演の経緯」を含む「弦楽五重奏曲 (ブルックナー)」の記事については、「弦楽五重奏曲 (ブルックナー)」の概要を参照ください。
- 作曲・初演の経緯のページへのリンク