指揮者としてデビュー、そして亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 21:22 UTC 版)
「ラファエル・クーベリック」の記事における「指揮者としてデビュー、そして亡命」の解説
14歳の時、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮するチャイコフスキーの交響曲第4番、ブルーノ・ワルターの指揮するマーラーの交響曲第1番に感銘を受け、指揮者を志す。プラハ音楽院でヴァイオリン、作曲、指揮を学び、1934年に自作の「ヴァイオリンとオーケストラのための幻想曲」を完成させて作曲科を、ドヴォルザークの「オテロ」序曲を指揮して指揮科を、パガニーニの楽曲を演奏してヴァイオリン科を、それぞれ卒業すると、同年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビュー。1936年にチェコ・フィルの常任指揮者、1939年にブルノの国立歌劇場 (Národní divadlo Brno) の音楽監督に就任。そして1942年、ヴァーツラフ・ターリヒがナチス政権に反抗して解任された後をうけ、チェコ・フィルの首席指揮者に就任。同年チェコ人ヴァイオリニスト、ラーラ・ベルトロヴァーと結婚。しかし大戦終結後の1948年にチェコスロバキアでチェコスロバキア共産党を中心とした政権が成立する(1948年のチェコスロバキア政変)と、チェコの共産化に反対したクーベリックは、同年のエディンバラ音楽祭へ参加するために渡英、そのままイギリスへと亡命した。
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