戦時外交
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「日韓議定書」、「日韓協約」、「日英同盟#第二次同盟」、および「桂・タフト協定」も参照 開戦後の2月8日、日本軍は仁川を、9日には漢城(現、ソウル特別市)を占領した。2月12日、ロシア公使館は韓国より撤収、日本はこれを接収した。対韓政策を何よりも重視する小村は、すでに秘密交渉を進めていた林権助に命じて2月13日に議定書案を大韓帝国の李址鎔外部大臣署理に提出、2月23日、韓国の協力を最大限引き出す、圧倒的に日本に有利なかたちで日韓議定書を結んだ。 小村はまた、国内外の広報活動にも力を入れた。日本はやむなく戦争に突入したことを訴えるべく、ロシアとの交渉経緯を公表し、それが『東京日日新聞』などの新聞メディアが連載されることによって、国民の一致団結と国民からの戦争協力に役立てようとしたのである。英米両国に対しては特使を派遣して広報外交を展開した。特使に選ばれたのは、「伊藤(博文)門下の四天王」といわれた末松謙澄と金子堅太郎であった。伊藤の女婿でもある末松はケンブリッジ大学卒業の経歴を買われて2月10日にイギリスに、留学時代以来の小村の親友である金子はセオドア・ルーズベルトとも旧知の仲であることも考慮されて2月24日にアメリカに、それぞれ出発した。それに先立ち、小村は、2人にロシア側の非妥協的な交渉態度が今次戦争を招いたことを訴えることと、英米両国における黄禍論の広がりを食い止めることを訓令した。 日本は満韓交換を求めて交渉に失敗した結果、日露開戦に踏み切ったため、開戦直後の満洲に対する構想は白紙に近かった。満洲からロシア軍を駆逐したとして、戦後の満洲保全を担保する手立てとしてまず考えられたのは満洲中立化構想であった。ところが、日本軍が予想以上に勝利を続け、日本軍占領地が北へ拡大するという展開に小村は敏感に反応していった。小村が7月に桂太郎首相に提出した意見書では、戦争の結果、韓国を事実上日本の主権範囲にすることにともない、満洲もある程度まで日本の勢力範囲とすべきことを主張している。 韓国支配の強化は、こうした動きと併行して進められた。5月末には「対韓方針に関する決定」と「対韓施設要領」が閣議決定されると、小村は林駐韓公使に一時帰国を命じ、6月中旬から7月中旬にかけて対韓政策を林と協議・検討し、それを踏まえて林を韓国側の外交担当者と交渉させた。その結果、8月22日、林権助駐韓公使と外部大臣尹致昊の間で第一次日韓協約が調印された。これを受けて、大韓帝国財務顧問に目賀田種太郎が、外交顧問にはアメリカ人ダーハム・W・スティーブンスがそれぞれ日本政府の推薦を受けて就任した。小村はさらに1905年2月に丸山重俊を警務顧問として韓国に派遣した。1905年4月8日に閣議決定された「韓国保護権確立の件」は、小村が原案作成に大きく関与していたものであり、これにより韓国保護国化が日本政府の外交目標にすえられた。ただし、これは欧米諸国からの承認が必要であった。 このような理由から、日本側は日英同盟のいっそうの強化を願い、小村も1905年2月12日の日英同盟3周年記念式典で同盟を高く評価し、強化を望む演説をおこなった。一方のイギリスは、日露戦争後の極東で日露が和解した結果、イギリスが孤立することを危惧して同盟強化を願っていた。チャールズ・ハーディング駐露大使とマグドナルド駐日公使の報告を受け取ったイギリス外相のランズダウン侯は同盟改定の必要を感じ、3月24日に林董公使を呼んで改定交渉を打診した。3月16日の奉天の会戦で日本が勝利したことからランズダウンは日本の軍事力に期待をいだき、アーサー・バルフォア英首相も渡英中の末松に同盟強化に意欲的な発言をおこなった。しかし、イギリスは同盟強化を同盟適用範囲の拡張ととらえており、それに気づいた小村は3月27日、林公使に対し、イギリス側との意見交換を許可しながらも日本側には同盟拡張の意図はないとし、イギリスに主導権を握られないよう注意を促した。 4月8日の日英同盟継続交渉開始に関する閣議決定を経て、4月16日に小村は同盟交渉方針を林公使に訓令したが、その要点は韓国保護国化の承認を英国には求めながらもイギリスが期待する同盟範囲の拡張にはあくまで同意しないというものであった。4月19日の林・ランズダウン会談は友好的な雰囲気のなかでおこなわれたが、慎重な林は韓国保護国化の要求は時期尚早として持ち出さず、有効期限は7年にしたいという希望を伝え、ただし、改定のポイントは同盟範囲の拡張ではないとイギリス側に釘を刺した。5月17日の正式会談では、ランズダウンの側から、純粋な軍事同盟への強化と同盟範囲をインドまで拡張することの2点がイギリス案として提起された。林はその場では返答しなかったが、小村に対してイギリス案を受け入れるよう要請した。5月24日、小村の意見書にもとづいて日英同盟継続に関する閣議が開かれたが、ここで小村は従来方針を転換して基本的にイギリス政府の意向に沿うものを骨子とした。すなわち、同盟範囲をインド以東に拡張し、一国からの攻撃によっても同盟が発動されることを認めたのである。ただし、韓国とインドをめぐっては日英双方の見解はなかなか一致せず、ここで小村は林公使の意見もしりぞけて強硬な姿勢をくずさなかった(途中から、小村はポーツマス講和会議に出席するために離日し、桂首相が臨時外相を兼任している)。8月12日、第二次日英同盟条約はロンドンにて調印された。これにより、日本の韓国保護国化はイギリスによって承認され、清国における機会均等・門戸開放は維持され、また、同盟の有効期限は10年間とされた。 日本の対韓政策に関しては、アメリカ合衆国、とりわけルーズベルト大統領は常に好意的であり、1905年1月23日の高平・ルーズベルト会談でも韓国を日本の勢力圏下に置くことに賛意を示した。5月28日の日本海海戦での日本の勝利によってアメリカの支持は決定的となり、ルーズベルトはフィリピン行きの用事があったウィリアム・タフト陸軍長官に対し、日本に立ち寄って韓国支配を認めるよう指示した。7月25日に日本に着いたタフトは27日に桂首相兼臨時外相と会談し、その内容を29日にエリフ・ルート国務長官に打電、7月31日、ルーズベルトはタフトに合意の意思を伝えた。8月7日にはタフトから桂へ大統領の同意を伝え、桂・タフト協定が成立した。これは日本の韓国支配とアメリカのフィリピン支配を相互に認めあう内容であった。ただ、この同意だけでアメリカが日本の韓国保護国化を認めるかどうかに、日本側はやや不安を残していた。そこで、ポーツマス条約締結後、小村はルート国務長官と、また、高平駐米大使を同席させてルーズベルト大統領とも会談し、彼らの同意を得て、日本は完全に韓国保護化についてのアメリカの承認を取り付けたのであった。
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