戦時外交とは? わかりやすく解説

戦時外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)

小村壽太郎」の記事における「戦時外交」の解説

日韓議定書」、「日韓協約」、「日英同盟#第二次同盟」、および「桂・タフト協定」も参照 開戦後2月8日日本軍仁川を、9日には漢城(現、ソウル特別市)を占領した2月12日ロシア公使館韓国より撤収日本はこれを接収した。対韓政策を何よりも重視する小村は、すでに秘密交渉進めていた林権助命じて2月13日議定書案を大韓帝国李址鎔外部大臣理に提出2月23日韓国協力最大限引き出す、圧倒的に日本有利なかたちで日韓議定書結んだ小村また、国内外広報活動にも力を入れた日本やむなく戦争突入したことを訴えるべく、ロシアとの交渉経緯公表し、それが『東京日日新聞』などの新聞メディア連載されることによって、国民一致団結国民からの戦争協力役立てようとしたのである英米両国に対して特使派遣して広報外交展開した特使選ばれたのは、「伊藤博文門下四天王」といわれた末松謙澄と金子堅太郎であった伊藤女婿でもある末松ケンブリッジ大学卒業経歴買われ2月10日イギリスに、留学時代以来小村親友である金子セオドア・ルーズベルトとも旧知の仲であることも考慮され2月24日アメリカに、それぞれ出発した。それに先立ち小村は、2人ロシア側の非妥協的な交渉態度今次戦争招いたことを訴えることと、英米両国における黄禍論広がり食い止めることを訓令した。 日本は満韓交換求めて交渉失敗した結果日露開戦踏み切ったため、開戦直後満洲対す構想白紙近かった満洲からロシア軍駆逐したとして、戦後満洲保全担保する手立てとしてまず考えられたのは満洲中立化構想であった。ところが、日本軍予想以上に勝利を続け日本軍占領地北へ拡大するという展開に小村敏感に反応していった。小村7月桂太郎首相に提出した意見書では、戦争の結果韓国事実上日本主権範囲にすることにともない満洲ある程度まで日本勢力範囲とすべきことを主張している。 韓国支配の強化は、こうした動き併行して進められた。5月末には「対韓方に関する決定」と「対韓施設要領」が閣議決定されると、小村駐韓公使一時帰国命じ6月中旬から7月中旬にかけて対韓政策を協議検討し、それを踏まえて韓国側外交担当者交渉させた。その結果8月22日林権助駐韓公使外部大臣尹致昊の間で第一次日韓協約調印された。これを受けて大韓帝国財務顧問目賀田種太郎が、外交顧問にはアメリカ人ダーハム・W・スティーブンスそれぞれ日本政府推薦受けて就任した小村はさらに1905年2月丸山重俊警務顧問として韓国派遣した1905年4月8日閣議決定された「韓国保護確立の件」は、小村原案作成大きく関与していたものであり、これにより韓国保護国化日本政府外交目標すえられた。ただし、これは欧米諸国からの承認が必要であったこのような理由から、日本側は日英同盟のいっそうの強化願い小村1905年2月12日日英同盟3周年記念式典同盟高く評価し強化を望む演説おこなった一方イギリスは、日露戦争後極東日露和解した結果イギリス孤立することを危惧して同盟強化願っていた。チャールズ・ハーディング駐露大使とマグドナルド駐日公使報告受け取ったイギリス外相ランズダウン侯同盟改定の必要を感じ3月24日林董公使呼んで改定交渉打診した3月16日奉天の会戦日本勝利したことからランズダウンは日本の軍事力に期待をいだき、アーサー・バルフォア英首相渡英中の末松同盟強化意欲的な発言おこなった。しかし、イギリス同盟強化同盟適用範囲拡張とらえており、それに気づいた小村3月27日公使対しイギリス側との意見交換許可しながらも日本側には同盟拡張意図はないとし、イギリス主導権握られないよう注意促した4月8日日英同盟継続交渉開始に関する閣議決定経て4月16日小村同盟交渉方針公使訓令したが、その要点韓国保護国化承認英国には求めながらもイギリス期待する同盟範囲拡張にはあくまで同意しないというものであった4月19日・ランズダウン会談友好的な雰囲気のなかでおこなわれたが、慎重な韓国保護国化要求時期尚早として持ち出さず有効期限7年にしたいという希望伝え、ただし、改定ポイント同盟範囲拡張ではないとイギリス側釘を刺した5月17日の正式会談では、ランズダウンの側から純粋な軍事同盟への強化同盟範囲インドまで拡張することの2点イギリス案として提起された。その場では返答しなかったが、小村に対してイギリス案を受け入れるよう要請した5月24日小村意見書もとづいて日英同盟継続に関する閣議開かれたが、ここで小村従来方針転換して基本的にイギリス政府意向沿うものを骨子とした。すなわち、同盟範囲インド以東拡張し一国からの攻撃によっても同盟発動されることを認めたのである。ただし、韓国インドめぐって日英双方見解はなかなか一致せず、ここで小村公使意見しりぞけて強硬な姿勢をくずさなかった(途中から、小村ポーツマス講和会議出席するために離日し、首相臨時外相兼任している)。8月12日第二次日英同盟条約ロンドンにて調印された。これにより、日本韓国保護国化イギリスによって承認され清国における機会均等門戸開放維持されまた、同盟有効期限10年間とされた。 日本の対韓政に関しては、アメリカ合衆国とりわけルーズベルト大統領は常に好意的であり、1905年1月23日高平ルーズベルト会談でも韓国日本勢力圏下に置くことに賛意示した5月28日日本海海戦での日本勝利によってアメリカ支持決定的となり、ルーズベルトフィリピン行き用事があったウィリアム・タフト陸軍長官対し日本立ち寄って韓国支配認めるよう指示した7月25日日本着いたタフト27日首相臨時外相会談しその内容29日エリフ・ルート国務長官打電7月31日ルーズベルトタフト合意意思伝えた8月7日にはタフトから大統領同意伝え桂・タフト協定成立した。これは日本韓国支配アメリカフィリピン支配相互に認めあう内容であった。ただ、この同意だけでアメリカ日本韓国保護国化認めかどうかに、日本側はやや不安を残していた。そこで、ポーツマス条約締結後小村ルート国務長官と、また、高平駐米大使同席させてルーズベルト大統領とも会談し、彼らの同意得て日本は完全に韓国保護化についてのアメリカ承認取り付けたであった

※この「戦時外交」の解説は、「小村壽太郎」の解説の一部です。
「戦時外交」を含む「小村壽太郎」の記事については、「小村壽太郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦時外交」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦時外交」の関連用語

戦時外交のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦時外交のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小村壽太郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS