後半生と仕事とは? わかりやすく解説

後半生と仕事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 02:30 UTC 版)

ジョン・ドライデン」の記事における「後半生と仕事」の解説

王政復古の後、すぐに当時としては一流詩人文芸評論家となり、忠誠を誓う相手新たな政府へと変えた。「Astraea Redux」に加えて、「神聖な陛下へ:その即位対す頌徳文 To His Sacred Majesty: A Panegyric on his Coronation」(1662年)と「わが大法官To My Lord Chancellor」(1662年)の2つ頌徳文新し政権歓迎した。これらの詩は、宮廷後援者になってくれる可能性期待していたことを暗示しているが、その代わりに、貴族政治のためでなく出版業者、そして究極的に読者である公衆のための文筆業生計立てようになった。これらの作品彼のその他の劇的な詩は特別な作品で、公的なイベントを祝う際のものである。これらの詩は個人のためよりもむしろ国のために書かれており、また桂冠詩人(彼は後にこの位につくことになる)は毎年このような詩を相当数書くこと強いられている。1662年11月王立協会への参加申込み初期フェロー選ばれた。しかし協会の活動の中では不活発であり、1666年会費不払いのために除名されている。 1663年12月1日王党派ロバート・ハワード卿の姉妹であるレディ・エリザベスと結婚したドライデン作品時折結婚状態に反発する感情噴出を含むが、一方で結婚対す祝福もまた同じよう含んでいる。このように彼の結婚内面についてはほとんど知られていない。しかしレディ・エリザベスはドライデンとの間に3人の息子をもうけ、彼よりも長生きしたのであるピューリタンによる禁制解けて劇場再開されたことで、劇の製作で忙しい生活を送るようになった1663年上演され最初の劇「野生色男 The Wild Gallant」は成功とは言えない結果終わったが、更なる成功を収めるべき人物であり、1668年からは出資していた王立組合と、年に3作の劇を制作する契約結んだ1660年代から1670年代にかけて、劇場用作品執筆彼の主な収入源であった王政復古時代喜劇Restoration comedy)の先導者で、最もよく知られ作品として「当世風結婚 Marriage A-la-Mode」(1672年)がある。また、英雄的悲劇定型悲劇同様に先導しており、この分野での最大の成功作は「すべて恋ゆえに All For Love」(1678年)である。ドライデン決し自分劇場用作品満足することはなく、しばしば自分才能くだらない観衆のために浪費されているとほのめかしている。そのため、彼は劇場外で詩によって名を成そう努力した1667年劇作家として仕事始まったのと同時期に1667年発表した叙事詩驚異の年」で、優れた詩人として名声高め桂冠詩人1668年)と王室歴史家1670年)を獲得する1665年ペスト大流行のため劇場閉鎖されると、ドライデンウィルトシャー避難し、この地で彼が書いた「Of Dramatick Poesie」(1668年)は彼の体系的な序文・詩の中でおそらく最高のものであろうとされるドライデンは常に自分文学的手腕守り続けており、批評的作品中でも最長作品である「Of Dramatick Poesie」は、4人の人物それぞれがかれと同時代優れた人物元にしており、自身は「ネアンダー」(Neander)として登場する–が古典・フランス・イギリス劇の長所について議論するという対話形式とっている。彼の批評的作品大部分は彼が議論することを望んでいた問題提起し自身アイデアについて強い意見持ち独立した精神をもった作家作品というものを見せてくれる。詩人伝統創造的過程との関係について強い考えがあり、英雄劇の中でも最高の作品とされるアウラングゼーブ」(1675年)は、真面目な劇に韻を用いることを弾劾するプロローグをもつ。「アウラングゼーブ」のすぐ後に製作した劇である「すべて恋ゆえに」は無韻詩用いられている。 最大功績風刺詩分野にあった桂冠詩人であった時期のより個人的な作品である英雄化した作品「マクフレクノー MacFlecknoe」は、写本の形で広まった風刺詩で、劇作家トマス・シャドウェルを攻撃する作品であった。これは風刺作品ありがちな人を見下すような形式ではなく、むしろ彼の作品を、予期せぬであったが、滑稽さを詩へと変える手段として偉大なものとしたのである。この風刺詩流れは、「アブサロムとアキトフェル Absalom and Achitophel」(1681年)や「メダル The Medal」(1682年)へと続いた。この時期彼の作品でほかに有名なものとしては、英国国教会一員であるという立場から書かれ宗教詩「平信徒宗教 Religio Laici」(1682年)がある。また彼は『プルターク英雄伝 Parallel Lives』の1683年編集によってイギリス読者達伝記biography)という言葉紹介し、また「牝鹿と豹 The Hind and the Panther」(1687年)では彼自身ローマ・カトリックへの帰依祝福している。 1688年ジェームズ王が退位すると、ドライデン政治宗教的精神宮廷認められなくなっていった。トマス・シャドウェルが桂冠詩人の座を彼から引き継ぎ個人役目と、自分執筆による収入生活することを放棄せざるを得なくなったホラティウスユウェナリスオウィディウスルクレティウステオクリトスらの作品翻訳したが、これは劇場用作品執筆比べると満足にはほど遠い仕事であると彼は感じていた。1694年に彼は、翻訳家としては最も大がかり明確な作品である「ウェルギリウス作品集 The Works of Virgil」の製作を始めた(この作品1697年寄付金によって出版された)。ウェルギリウス作品翻訳出版されることは国家的な出来事で、ドライデンには合計1,400ポンド渡された。彼の最後翻訳作品書物古代・近代寓話 Fables Ancient and Modern」(1700年)内に見受けられる。この本はホメロスオウィディウスボッカッチョといった人物のエピソードや、ドライデン自身の詩がちりばめられジェフリー・チョーサー作品近代的翻案などの作品集である。この「寓話」の「序文」は、批評作品として有名なものであり、英文書かれた最もすばらしエッセイであると見なされている。批評家および翻訳家として、彼は古言語で書かれ文学作品英語圏読者読めるようにする上で欠かせない人物であった1700年逝去ウェストミンスター寺院埋葬された。詩人として影響生前には計り知れないほど大きく彼の死によりイギリス文学界が受けた損失は、その影響受けたエレジーからも明白に見て取れる18世紀には、彼の詩はアレキサンダー・ポープサミュエル・ジョンソンといった詩人たちにモデルとして用いられた。19世紀になると彼の評判衰え今なお専門家の環の外から完全に元の位置戻されてはいない。彼の最大擁護者一人であるT・S・エリオットは、ドライデンが「18世紀の最もすばらしい詩のほぼ全ての祖」であり、「我々はドライデンを完全に楽しむことなくしては、数百年の歴史をもつイギリスの詩を完全に楽しむ、あるいは正しく評価することは出来ないと書いている。

※この「後半生と仕事」の解説は、「ジョン・ドライデン」の解説の一部です。
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