後半生から死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:00 UTC 版)
潤治は大正以降、地主業を番頭らに任せると東京の雑司ヶ谷に構えた別荘に移住した。その後、本拠地の津有村では1926年(大正15年)春と1930年(昭和5年)10月18日に小作争議が発生しているが、東京移住と同時期より、潤治は小作料収入に支えられながら書画骨董や美術品の購入に励み、やがて膨大な量の古典籍を蒐集し、学界でも大変な愛書家として名が通るに至った(蒐集活動を参照)。1931年(昭和6年)から1943年(昭和18年)にかけては、所蔵品の一部が国(文部省)から国宝(いわゆる「旧国宝」、文化財保護法施行後は重要文化財)指定や重要美術品認定を受けている(文化財指定等を受けた蒐集品一覧を参照)。 しかし、太平洋戦争後に農地改革や財産税法施行などを受けて日本の地主制が解体されると、保阪家も農地や資産といった経済基盤を喪失して大打撃を被った。戦後の潤治は9人の孫の教育費を捻出するのも苦労するまで困窮し、雑司ヶ谷の邸宅を払って神奈川県鎌倉市雪ノ下、次いで六地蔵前周辺に移住した。そして、それまで蒐集してきた数多の美術品や古典籍も納税のために手放さざるを得なくなり、1951年 - 1952年(昭和26年 - 27年)頃からは国宝や重要美術品になった名品も次々に売却された。 潤治はその後再び東京に移り、1963年(昭和38年)4月4日に死去したが、跡を継いだ三男の保阪隣三郎も相続税を納めるべく、邸宅の大部分とともになお残っていた品々を売却したため、彼が苦心して一代で築き上げた蒐集品の山は散逸してしまった。
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